「お城あるある」かもしれませんが歴史的な背景を知らないと、せっかくお城を見学してもなんの面白みも感じませんよね。
白石城がどんな場所だったのか、この地で何があったのか。
城にまつわる歴史を知っていれば「この場所で政宗公は戦ったのか……」と胸が熱くなるはず!
そこで今回は白石城を楽しく観光してもらうために、その歴史わかりやすく解説します。
伊達家の支配下にあった白石城
いつ、だれが、白石城を築城したのか? 実は明らかにされていません。
一説によると、平安時代後期の「後三年の役」で戦果を挙げた、刈田経元が築城したのがはじまりではないか?といわれています。
そして時は流れ、戦国時代へ。
刈田氏は伊達家の勢力下に属しており、いつからか名前も白石氏と改名していました。
政宗、秀吉に呼ばれて小田原合戦に参戦する
事の始まりは天正18年(1590)。
豊臣秀吉が関東の一大勢力であった北条家を討伐した”小田原合戦”がキッカケでした。
秀吉は伊達政宗の伊達家をはじめ、東北の武将らに「小田原合戦へ参陣せよ」と呼びかけます。
しかし輝宗(政宗の父)の時代から伊達家と北条家は同盟関係にあったため、秀吉に服従するか北条氏に参戦するか……直前まで迷っていたようです。
家臣らの説得もあり、政宗は本拠地から小田原へ向けて出立します。
そして現地に着いた政宗は秀吉との兵力差を思い知り、北条家との同盟破棄を選んだのです。
政宗、秀吉に白石城を没収される
小田原合戦で北条家を滅ぼした秀吉は、合戦に参陣しなかった東北の諸大名に対し、領土を没収する”奥州仕置(おうしゅうしおき)”を実施します。
合戦への遅参や※惣無事令を無視した前科もあり、政宗も仕置きの対象に…。
秀吉により、白石城を含めた所領を取り上げられてしまうのです。
白石城は政宗の手から離れ、代わりに秀吉の家臣・蒲生源左エ門郷成(がもうげんざえもんさとしげ)が城代となります。
その際白石城は、石垣を積んだ天守”近世城郭”へと改造されました。
慶長3年(1598)には上杉景勝(上杉謙信の養子、家督を継いだ)領となり、白石城は上杉家の家臣・甘糟景継(あまかすかげつぐ)の居城となり、白石城の再構築が進められていきます。
政宗、”徳川派”として上杉と対立する
事態が動いたのは、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)。
天下の覇権を狙う徳川家康が尻尾を出し、政権内部の影響力を高めていきます。
その一環として家康は、同じ※五大老のメンバーである上杉景勝を味方につけようと画策。
しかし景勝は、豊臣家の存続を願う石田三成(豊臣家の家臣)と手を組み、家康とは敵対関係になります。
慶長5年(1600)、反徳川派の景勝は※会津領内で城の補修や築城に乗り出します。
この動きを、景勝の後に越後の大名となった堀秀治(ほりひではる)が謀反を企てているのではないかと? 家康に報告。
家康は理由を説明するよう上洛を命令しますが、景勝はこれを拒否!
激怒した家康は、大軍を率いて会津討伐へと向かいます。
しかし道中で石田三成の挙兵を知り、家康は会津への進軍を中止。
先に三成を討とうと、引き返します。
その後”天下分け目の戦い”といわれる「関ヶ原の戦い」が起こり、三成率いる西軍が家康率いる東軍に大敗。
景勝も家康に降伏することになります。
政宗 VS 上杉「白石城の戦い」
一方そのころ、伊達政宗は家康の会津討伐の号令をうけて、上杉の家臣・甘粕景継(あまかすかげつぐ)が城代を務めていた白石城を攻略しようと動き出します。
しかしこの時、景勝の命で景継は会津へ出向いており、代わりに甥の登坂勝乃が代理として城を守っていました。
かつては伊達の所領だったため、地に利のある政宗は一気に城の奪還を図ります。
追い詰められた勝乃は政宗に降伏しようとしますが、鹿子田右衛門が徹底抗戦を主張。
しかし勝乃は田右衛門を殺し、降伏の道を選びました。この戦を現在は「白石城の戦い」と呼んでいます。
こうして白石城は、再び伊達の勢力下に置かれることに。慶長7年(1602)には政宗の腹心・片倉景綱(小十郎)が城代となり、以降は片倉家の居城となります。
一国一城令から逃れた貴重な城
慶長20年(1615)、江戸幕府と豊臣家との間で勃発した”大阪の陣”で、豊臣家はついに滅亡。
幕府による支配も安定化し、諸大名に対する規制を強めていきます。
その一例として、一国一城令(いっこくいちじょうれい)が挙げられます。
その名の通り、一国につき城を一つだけ認めるという内容です。
当時白石城のある仙台藩には、初代藩主の政宗が築いた仙台城がありました。本来であれば白石城は取り壊されるはずですが、“特例”として存続を許されることになります。
これには城主であった景綱の功績が認められた、政宗と景綱を離れさせるの目的があったなど様々な説が浮上していますが、結果として白石城は以降260年余りの間片倉家の居城として存在し続けたのです。
幕末に再び登場する白石城
白石城が再び歴史に登場するのは、幕末の動乱期。慶応4年(1868)の※戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に、薩長連合(新政府)に対抗するための同盟(奥羽越列藩同盟)が、この白石城で結ばれました。
しかし仙台藩や会津藩が降伏し、同盟は消滅。明治7年(1874)に白石城は解体されてしまいます。
白石城内の見どころ
史実に基づき、解体前の白石城を再現した外観と内観の見どころをご紹介します。
3階の天守から望む、白石の城下町
平成7年に復元された、白石城三階櫓(さんがいやぐら)。城郭として機能していた文政6年(1823)の構造に基づき、忠実に復元されました。
国内でも数少ない木造による復元で、数百年の歳月にも耐え得るといわれています。天守の高さは石垣天端から約16.7mで、戦後の木造復元天守のなかでは高さ・広さともに日本最大級!
そんな三階櫓は実質「天守」ですが、当時江戸幕府への配慮から「大櫓」と名付けられました。片倉家の日記の中にも「天守」とは記されていません。
三階櫓は城主の住まいではなく、武器等の保管場所として利用されていたたそう。一番上の三階は物見櫓も兼ねており、敵の情勢をみながら軍議を開けたようです。
また戦闘状態になったとき、敵の頭上に石を落として攻撃する”石落とし”などが、1階に設けられていました。
城内では本格的な甲冑着付け体験、「サムライ体験」を無料できるようです。専門のスタッフが着付けをサポートしてくれるので、安心してください。
白石城のアクセス、基本情報
アクセス
<電車>
JR東北本線「白石駅」から徒歩約10分
<車>
東北新幹線「白石蔵王駅」から車で約5分
東北道白石I.Cから、国道4号経由で約10分
<駐車場>
・城下広場駐車場(大型車7台、普通車81台)
料金:無料
アクセス:東北自動車道白石I.Cから車で約15分
・益岡公園駐車場(大型車13台、普通車210台)
料金:無料
アクセス:東北自動車道白石I.Cら車で約10分
入館料
施設 | 一般 | 小学・中学・高校生 | 未就学児童 |
白石城 | 400円 | 200円 | 無料 |
白石城・白石城歴史探訪ミュージアム・武家屋敷3館共通券600円、20名以上団体割引あります。
営業時間
期間 | 時間 |
4~10月 | 9:00~17:00 |
11~3月 | 9:00~16:00 |
最終入館は、閉館30分前までです。
※休館日 は12月28日~12月31日。