支倉常長の生涯(壮年期~晩年期)
常長公、仙台からヨーロッパへ渡る
長い戦国の世が終わり、仙台藩初代藩主となった伊達政宗公は、慶長遣欧使節(けいちょうけいおうしせつ)の派遣を決定します。
その目的は、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との直接貿易。そのためには、ヌエバ・エスパーニャを統治するイスパニア(現在のスペイン)国王と交渉する必要がありました。
政宗公が異国との貿易を望んだ理由は諸説ありますが、近年の考えでは1611年の慶長三陸地震による復興政策の一環ではないか、と考えられています。
地震により深刻な被害を受けた仙台藩は、領内の復興と再生が何よりも急務でした。そのため外国との交流によって、大きな利益と活力を得ようと外交使節の派遣を決めたのではないか?という説です。
政宗公は、使節団のリーダーに常長公を任命。江戸幕府樹立から10年後の1613年(慶長18)、常長公ら外交使節団を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、月浦(宮城県石巻市)から太平洋の大海原へと出帆しました。
なぜ常長公だったのか?
なぜ常長公が抜擢されたのかは定かではありませんが、手掛かりとなる書状は発見されています。
その書状は政宗公の自筆によるもので、常長公の実父である山口常成に対し「不届きの義につき切腹」とし、連座制により常長公にも追放処分を下していました。
ではなぜ追放処分を下した常長公を、 慶長遣欧使節の大使に任命したのか?
政宗公が常長公の能力を高く評価していたことはもちろん、異国との交渉という困難な役目を与えることで、処分を取り消し名誉挽回のチャンスを与えたとも考えられます。
スペインへ上陸!国王フェリペ3世と謁見
メキシコを経由し、スペインへ足を踏み入れた常長公。仙台を出帆してからおよそ1年後のことです。
16~17世紀のスペインは、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカへと支配領地を広げていた世界の大帝国。本国で太陽が沈んでも、地球の反対側まである領土のどこかで太陽が昇っていることから、“太陽の沈まぬ国”と呼ばれるほどでした、
そんな大帝国の頂点に立つスペイン国王・フェリペ3世に謁見するだけでなく、常長公は堂々と貿易交渉に挑んだのです。
その後マドリードの王立修道院付属教会にて、王の臨席のもとで洗礼(キリスト教の入信の際に行われる儀式)を受けます。洗礼名は国王と聖人の名を冠した、ドン・フェリぺ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモンでした。
イタリアへ渡り、ローマ教皇と謁見
しかしフェリペ3世のもとに、使節団に関する不利な情報がもたらされ、華やかな歓迎とは裏腹に国王から良い返事をもらうことができませんでした。
そこで常長公は、ローマ教皇に国王との仲立ちをお願いしようと、マドリードからローマへと旅立ちます。
当時のローマ教皇・パウルス5世と謁見することができ、常長公は政宗公から託された手紙を渡します。手紙は和紙に金箔・銀箔を散らした美しいもので、日本語とラテン語の2種類ありました。その手紙は現在、ヴァチカン図書館に保管されているようです。
さらに常長公は、ローマの市議会から市民権と貴族の位を認められ、「ローマ市公民権証書」を与えられました。そのローマ市公民権証書は国宝に指定され、現在は仙台市博物館に収蔵されています。
日本人ではじめてチョコレートを食べた!?
日本人ではじめてチョコレートを食べた人物を知っていますか? 諸説ありますが、常長公もその内の1人なんです。
当時のチョコレートは、板チョコではなくドリンク状だったといいます。現在のようなスイーツではなく、ショウガや唐辛子などを入れた薬だったようです。
使節団一行がチョコレートを口にした記録はありませんが、すでにスペインには流通しており、食する機会があったのではないかと考えられています。
慶長遣欧使節団、無念の帰国
結論からいうと、スペイン国王との交渉は失敗に終わりました。
ローマ教皇の謁見後、再びスペインマドリードへ戻り交渉を続けますが、最終的には追われるようにヨーロッパを離れます。
というのも、すでに日本では江戸幕府による禁教令(キリスト教を禁ずる法令)が布かれ、「仙台藩内におけるキリスト教の布教を認める」というカードが切れなくなったのも大きな要因でした。
使節団はスペインからメキシコへ、太平洋を渡りフィリピンのマニラへたどり着きます。マニラ到着後、常長公は長男宛に「来年には必ず帰国する」という手紙を出しましたが、結局2年ほどマニラに滞在し、1620年(元和6)9月に仙台へ帰国を果たします。
出帆から7年の月日が流れていました。
常長公の最期
国内ではすでに江戸幕府による禁教令が布かれ、キリスト教の弾圧は激しさを増す一方でした。
常長公の帰国から2日後、政宗公も仙台藩領内にキリシタン禁令を出し、信者の取り締まりを強化します。
その後の常長公の消息は不明です。帰国から1年後の1621年7月1日に病で亡くなったと伝えられています。
これには諸説あり、実際は1654年(承応3)84歳で亡くなったという説もあります。
常長公はキリスト教の洗礼を受けていたため、禁教令の布かれた国内では異端者として処罰される可能性がありました。
政宗公が常長公を守るため幕府に「常長は死亡した」と見せかけの報告をした、とも伝えられています。
キリスタン弾圧と支倉家
ここまで「支倉常長」と言う名前で紹介してきましたが、本人が自身を常長と称した記述はありません。常長公自筆の資料には、六右衛門や六右衛門長経と記されています。
この支倉常長という名は、一時断絶した支倉家の再興後に編纂された支倉家の系図に記された名前です。
先祖ががキリシタンであったことを隠すため、子孫がに偽って記録したとも考えられています。