支倉常長ってなにをした人?
伊達家の家臣として、主君・伊達政宗公に仕えた支倉常長(はせくら つねなが)。
彼の最も偉大な功績は、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)のリーダーとして海を渡り、大帝国スペインを相手に貿易交渉に挑み、無事帰国を果たしたことです。
なぜ伊達政宗公は、慶長遣欧使節を派遣したのか? 交渉の行方は? 帰国後、支倉常長はどうなったのか?
この記事では、支倉常長の生涯について紹介します。
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支倉常長の生涯(幼少期~壮年期)
叔父の元へ養子に出される
戦国時代末期の1571年(元亀2)、支倉常長(はせくら つねなが)公は現在の山形県米沢市で、伊達家の家臣・山口常成の次男として誕生しました。
しかし父親の兄・支倉時正(ときまさ)の元へ、嗣子(家の跡継ぎ)として養子に出されてしまいます。
青年期を上楯城で過ごす
7歳の頃に米沢を離れ、現在の宮城県柴田郡川崎町にあった「上楯城(かみたてじょう)」へ移り住みます。この頃の常長公に関する史料は残されておらず、いつまで暮らしていたのかも定かではありません。
上楯城については下記記事をぜひみてください。
山口ではなく支倉を継いだ常長公ですが、後に養父・時正と再婚相手との間に男子が誕生。政宗公の命により1,200石あった家禄を600石にずつに分け、常長公は支倉家の分家となりました。
伊達政宗の家臣として戦場を駆ける
常長公の名が登場するのは、伊達氏の戦に関する資料です。
1589年(天正17)宮城県北部で起こった葛西・大崎一揆の鎮圧、1592~1593年(天正20~文禄2)の豊臣秀吉による朝鮮出兵。いずれも主君・伊達政宗に率いる軍の一員として戦い、共に死線を乗り越えていきました。
常長公はただの家臣ではなく、政宗公が選んだ特別な命令を遂行する「伊達御手明衆(おてあきしゅう)」の一人だったようです。