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支倉常長どんな人だった?太平洋を越え大帝国と交渉した侍

江戸時代がはじまって間もない1613年、仙台藩家臣の一人・支倉常長(はせくら つねなが)は主君伊達政宗の命を受け、外交使節を率いてヨーロッパへ渡りました。この記事では、数奇な運命に翻弄された支倉常長の生涯を紹介します。

アイキャッチ出典:写真AC しばいぬだいすき

支倉常長ってなにをした人?

伊達家の家臣として、主君・伊達政宗公に仕えた支倉常長(はせくら つねなが)。
彼の最も偉大な功績は、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)のリーダーとして海を渡り、大帝国スペインを相手に貿易交渉に挑み、無事帰国を果たしたことです。

 

なぜ伊達政宗公は、慶長遣欧使節を派遣したのか? 交渉の行方は? 帰国後、支倉常長はどうなったのか?
この記事では、支倉常長の生涯について紹介します。

 

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支倉常長の生涯(幼少期~壮年期)

上楯城  堀

叔父の元へ養子に出される

戦国時代末期の1571年(元亀2)、支倉常長(はせくら つねなが)公は現在の山形県米沢市で、伊達家の家臣・山口常成の次男として誕生しました。
しかし父親の兄・支倉時正(ときまさ)の元へ、嗣子(家の跡継ぎ)として養子に出されてしまいます。

青年期を上楯城で過ごす

7歳の頃に米沢を離れ、現在の宮城県柴田郡川崎町にあった「上楯城(かみたてじょう)」へ移り住みます。この頃の常長公に関する史料は残されておらず、いつまで暮らしていたのかも定かではありません。

上楯城については下記記事をぜひみてください。

 

山口ではなく支倉を継いだ常長公ですが、後に養父・時正と再婚相手との間に男子が誕生。政宗公の命により1,200石あった家禄を600石にずつに分け、常長公は支倉家の分家となりました。

伊達政宗の家臣として戦場を駆ける

支倉常長メモリアルパーク 支倉常長像

常長公の名が登場するのは、伊達氏の戦に関する資料です。

1589年(天正17)宮城県北部で起こった葛西・大崎一揆の鎮圧、1592~1593年(天正20~文禄2)の豊臣秀吉による朝鮮出兵。いずれも主君・伊達政宗に率いる軍の一員として戦い、共に死線を乗り越えていきました。

 

常長公はただの家臣ではなく、政宗公が選んだ特別な命令を遂行する「伊達御手明衆(おてあきしゅう)」の一人だったようです。

支倉常長の生涯(壮年期~晩年期)

常長公、仙台からヨーロッパへ渡る

石巻 サンファン館

長い戦国の世が終わり、仙台藩初代藩主となった伊達政宗公は、慶長遣欧使節(けいちょうけいおうしせつ)の派遣を決定します。
その目的は、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との直接貿易。そのためには、ヌエバ・エスパーニャを統治するイスパニア(現在のスペイン)国王と交渉する必要がありました。

 

政宗公が異国との貿易を望んだ理由は諸説ありますが、近年の考えでは1611年の慶長三陸地震による復興政策の一環ではないか、と考えられています。

地震により深刻な被害を受けた仙台藩は、領内の復興と再生が何よりも急務でした。そのため外国との交流によって、大きな利益と活力を得ようと外交使節の派遣を決めたのではないか?という説です。

 

政宗公は、使節団のリーダーに常長公を任命。江戸幕府樹立から10年後の1613年(慶長18)、常長公ら外交使節団を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、月浦(宮城県石巻市)から太平洋の大海原へと出帆しました。

なぜ常長公だったのか?

政宗の騎馬像 台座

なぜ常長公が抜擢されたのかは定かではありませんが、手掛かりとなる書状は発見されています。

その書状は政宗公の自筆によるもので、常長公の実父である山口常成に対し「不届きの義につき切腹」とし、連座制により常長公にも追放処分を下していました。

 

ではなぜ追放処分を下した常長公を、 慶長遣欧使節の大使に任命したのか?
政宗公が常長公の能力を高く評価していたことはもちろん、異国との交渉という困難な役目を与えることで、処分を取り消し名誉挽回のチャンスを与えたとも考えられます。

スペインへ上陸!国王フェリペ3世と謁見

支倉常長

メキシコを経由し、スペインへ足を踏み入れた常長公。仙台を出帆してからおよそ1年後のことです。

16~17世紀のスペインは、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカへと支配領地を広げていた世界の大帝国。本国で太陽が沈んでも、地球の反対側まである領土のどこかで太陽が昇っていることから、“太陽の沈まぬ国”と呼ばれるほどでした、

 

そんな大帝国の頂点に立つスペイン国王・フェリペ3世に謁見するだけでなく、常長公は堂々と貿易交渉に挑んだのです。

その後マドリードの王立修道院付属教会にて、王の臨席のもとで洗礼(キリスト教の入信の際に行われる儀式)を受けます。洗礼名は国王と聖人の名を冠した、ドン・フェリぺ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモンでした。

イタリアへ渡り、ローマ教皇と謁見

しかしフェリペ3世のもとに、使節団に関する不利な情報がもたらされ、華やかな歓迎とは裏腹に国王から良い返事をもらうことができませんでした。

そこで常長公は、ローマ教皇に国王との仲立ちをお願いしようと、マドリードからローマへと旅立ちます。

当時のローマ教皇・パウルス5世と謁見することができ、常長公は政宗公から託された手紙を渡します。手紙は和紙に金箔・銀箔を散らした美しいもので、日本語とラテン語の2種類ありました。その手紙は現在、ヴァチカン図書館に保管されているようです。

 

さらに常長公は、ローマの市議会から市民権と貴族の位を認められ、「ローマ市公民権証書」を与えられました。そのローマ市公民権証書は国宝に指定され、現在は仙台市博物館に収蔵されています。

日本人ではじめてチョコレートを食べた!?

チョコレート

日本人ではじめてチョコレートを食べた人物を知っていますか? 諸説ありますが、常長公もその内の1人なんです。

当時のチョコレートは、板チョコではなくドリンク状だったといいます。現在のようなスイーツではなく、ショウガや唐辛子などを入れた薬だったようです。

 

使節団一行がチョコレートを口にした記録はありませんが、すでにスペインには流通しており、食する機会があったのではないかと考えられています。

慶長遣欧使節団、無念の帰国

結論からいうと、スペイン国王との交渉は失敗に終わりました。

ローマ教皇の謁見後、再びスペインマドリードへ戻り交渉を続けますが、最終的には追われるようにヨーロッパを離れます。

というのも、すでに日本では江戸幕府による禁教令(キリスト教を禁ずる法令)が布かれ、「仙台藩内におけるキリスト教の布教を認める」というカードが切れなくなったのも大きな要因でした。

 

使節団はスペインからメキシコへ、太平洋を渡りフィリピンのマニラへたどり着きます。マニラ到着後、常長公は長男宛に「来年には必ず帰国する」という手紙を出しましたが、結局2年ほどマニラに滞在し、1620年(元和6)9月に仙台へ帰国を果たします。

出帆から7年の月日が流れていました。

常長公の最期

仙台城 二の丸跡

出典:PIXTA

国内ではすでに江戸幕府による禁教令が布かれ、キリスト教の弾圧は激しさを増す一方でした。

常長公の帰国から2日後、政宗公も仙台藩領内にキリシタン禁令を出し、信者の取り締まりを強化します。

 

その後の常長公の消息は不明です。帰国から1年後の1621年7月1日に病で亡くなったと伝えられています。

これには諸説あり、実際は1654年(承応3)84歳で亡くなったという説もあります。

常長公はキリスト教の洗礼を受けていたため、禁教令の布かれた国内では異端者として処罰される可能性がありました。

政宗公が常長公を守るため幕府に「常長は死亡した」と見せかけの報告をした、とも伝えられています。

キリスタン弾圧と支倉家

ここまで「支倉常長」と言う名前で紹介してきましたが、本人が自身を常長と称した記述はありません。常長公自筆の資料には、六右衛門六右衛門長経と記されています。

この支倉常長という名は、一時断絶した支倉家の再興後に編纂された支倉家の系図に記された名前です。

先祖ががキリシタンであったことを隠すため、子孫がに偽って記録したとも考えられています。

 県内に3か所ある「支倉常長」の墓

常長公の墓は、宮城県内の3か所にあります。

① 光明寺(仙台市青葉区北山)

支倉常長の墓

北山五山の一つ「光明寺(こうみょうじ)」の境内にあります。北山五山とは、仙台開府の際に伊達政宗公によって創建された、5つある臨済宗の寺院です。詳しくは下記記事をみてください。

住所:

宮城県仙台市青葉区青葉町3-1

アクセス:

【公共交通の場合】

JR仙山線「北仙台駅」より徒歩約5分

仙台市営地下鉄南北線「北仙台駅」より徒歩約5分

【クルマの場合】
東北道「仙台宮城」ICより約20分

駐車場:

無料/数台

② 圓福寺(川崎町支倉)

圓福寺 支倉常長の墓

柴田郡川崎町にある「圓福寺(えんぷくじ)」は、常長公の菩提寺です。常長公の墓と、同行したと思われるキリシタンの墓「いかり印の墓」もあります。

近くには常長公ゆかりの「上楯城」、飲食店や野菜の直売所などがある「イーレ!はせくら王国」があるので、あわせて訪ねてみてはいかがでしょうか?

住所:

宮城県柴田郡川崎町支倉宿154

アクセス:

【公共交通の場合】

JR「仙台」駅前よりタケヤ交通の西部ライナー「かわさきまち」行きに乗車(約78分)-「かわさきまち」下車-川崎町役場よりタクシーで約12分

【クルマの場合】

東北道「村田」ICより約15分

駐車場:

無料/約10台

③ 西光寺(大郷町東成田)

大郷町の「支倉常長メモリアルパーク」の敷地内にあります。入口には常長公の銅像が立ち、奥へ進むと常長公の墓がひっそりと佇んでいます。

支倉常長メモリアルパークについては知りたい方、ぜひ下記記事をみてください!

住所:

宮城県黒川郡大郷町東成田山合4-1

アクセス:

【公共交通の場合】

JR東北本線「品井沼」駅よりタクシーで約20分

【クルマの場合】

三陸道「松島大郷」ICより約10分

駐車場:

無料/10台

江戸時代、世界の大帝国と交渉した侍

キリスタン弾圧が高まる中、7年の歳月を経て帰国を果たした支倉常長公。使節団全員が帰国したわけではなく、スペインや途中のメキシコ、フィリピンで帰国を断念したメンバーもいたようです。

使節団が持ち帰ってきた文物は、幕府によって厳重に封印されることとなり、さらに彼らの業績も歴史の闇に葬られてしまいました。

 

使節団の偉業が公となるのは、およそ250年後の1873年(明治6)。岩倉使節団がイタリアのヴェネツィアで常長公の書状を発見したことで明らかになりました。

 

慶長遣欧使節に関しては、宮城県石巻市に「宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館」があります。

船上での生活や旅路の様子を、展示パネルやシアターで紹介しています。詳しくは下記記事をみてくださいね。

 

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※掲載されている情報は最新のものとは限りません。現地にお越しの際には必ず施設の公式サイトもご確認ください。

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GOGO MIYAGI!運営&記事編集担当。マグロとすんだ餅が好物。宮城にある神社や仏閣、景勝地、B級スポットの発掘に日々没頭中。読者の皆様にわかりやすく、ためになるような記事製作を心掛けています。

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