「上楯城」ってどんなお城?
「上楯城(かみたてじょう)」は仙台市から車で40分ほど、宮城県南西部の柴田郡川崎町にあります。
支倉常長(はせくら つねなが)が7歳から青年期まで過ごしたとされる城で、戦国時代の天文14年(1545)に常長の養祖父・支倉常正(はせくら つねまさ)によって築城されたと考えられています。
石高以上の規模を誇り、土塁や空堀、馬場などの軍事施設を備えた城だったようです。
常長がどのくらい居城していたのか、いつ廃城となったのか?上楯城に関する史料は残されておらず、その史実は謎に包まれています。
「支倉常長」ってナニモノ?
今から400年前の江戸時代、仙台藩藩祖・伊達政宗の命により南アメリカ大陸、ヨーロッパへと渡った武士・支倉常長(はせくら つねなが)。
アジア人として唯一無二のローマ貴族およびカトリック教徒となり、日本人ではじめてチョコレートを口にした人物としても知られています(諸説あり)。
支倉常長は元亀2年(1571)、支倉常正の子である山口常成(やまぐち つねしげ)の嫡男として、現在の山形県米沢市で生まれました。
支倉家の家督を継いだのは、山口常成の兄である支倉時正(はせくら ときまさ)でしたが、時正の妻(砂金貞常の娘)との間に子が授からなかったため、常長は7歳のときに時正の嗣子として養子入りします。
ところがその後、時正は最初の妻と離縁。のちに迎え入れた後妻が、2人の男子を授かったのです。
これを受け、伊達政宗は支倉家の家禄1,200石のうち、半分600石を常長に与えて分家させました。
嗣子(しし)…家を継ぐべき子。あととり。
その後は伊達氏の家臣として、功績を積み上げていく常長。42歳のとき、人生の転換期が訪れます。
主君の伊達政宗公より、※慶長遣欧使節の大使に抜擢されたのです。
慶長18年(1613)10月28日。常長を筆頭とする慶長遣欧使節は、サン・ファン・バウティスタ号に乗ってヌエバ・エスパーニャを目指し出港しました。
そして7年の歳月に渡る航海を終え、1620年に無事帰国を果たしたのです。
詳しくは下記記事でご紹介していますので、ぜひご覧ください!
※慶長遣欧使節団…伊達政宗がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との直接貿易を求めるために、イスパニア(現在のスペイン)国王及びローマ教皇のもとに派遣した外交使節のこと。
「上楯城址」を散策!
館山の山頂に築かれた山城で、本丸、二ノ丸、三ノ丸、曲輪、馬場跡からなる東西300m、南北200mの大型連郭式山城跡です。
遺跡の規模は、東西南北それぞれ約500mに及ぶと考えられています。
それではさっそく、上楯城址内をみてみましょう。