上楯城  堀
アイキャッチ画像出典:撮影 筆者
記事中画像:撮影 筆者

「上楯城」ってどんなお城?

川楯城

「上楯城(かみたてじょう)」は仙台市から車で40分ほど、宮城県南西部の柴田郡川崎町にあります。

 

支倉常長(はせくら つねなが)が7歳から青年期まで過ごしたとされる城で、戦国時代の天文14年(1545)に常長の養祖父・支倉常正(はせくら つねまさ)によって築城されたと考えられています。

石高以上の規模を誇り、土塁や空堀、馬場などの軍事施設を備えた城だったようです。

 

常長がどのくらい居城していたのか、いつ廃城となったのか?上楯城に関する史料は残されておらず、その史実は謎に包まれています。

「支倉常長」ってナニモノ?

支倉常長

▲石巻市「サン・ファン館」にある支倉常長の展示

今から400年前の江戸時代、仙台藩藩祖・伊達政宗の命により南アメリカ大陸、ヨーロッパへと渡った武士・支倉常長(はせくら つねなが)。

 

アジア人として唯一無二のローマ貴族およびカトリック教徒となり、日本人ではじめてチョコレートを口にした人物としても知られています(諸説あり)。

仙台城 二の丸跡

出典:PIXTA(仙台城跡 二ノ丸跡にある常長の銅像)

支倉常長は元亀2年(1571)、支倉常正の子である山口常成(やまぐち つねしげ)の嫡男として、現在の山形県米沢市で生まれました。

支倉家の家督を継いだのは、山口常成の兄である支倉時正(はせくら ときまさ)でしたが、時正の妻(砂金貞常の娘)との間に子が授からなかったため、常長は7歳のときに時正の嗣子として養子入りします。

 

ところがその後、時正は最初の妻と離縁。のちに迎え入れた後妻が、2人の男子を授かったのです。

これを受け、伊達政宗は支倉家の家禄1,200石のうち、半分600石を常長に与えて分家させました。

嗣子(しし)…家を継ぐべき子。あととり。

仙台城 政宗公 レリーフ

▲仙台城跡にある伊達政宗騎馬像の台座レリーフ(出航海前の支倉常長らを見送る伊達政宗)

その後は伊達氏の家臣として、功績を積み上げていく常長。42歳のとき、人生の転換期が訪れます。

主君の伊達政宗公より、※慶長遣欧使節の大使に抜擢されたのです。

石巻 サンファン館

▲サン・ファン・バウティスタ号の復元船

慶長18年(1613)10月28日。常長を筆頭とする慶長遣欧使節は、サン・ファン・バウティスタ号に乗ってヌエバ・エスパーニャを目指し出港しました。

そして7年の歳月に渡る航海を終え、1620年に無事帰国を果たしたのです。

 

詳しくは下記記事でご紹介していますので、ぜひご覧ください!

※慶長遣欧使節団…伊達政宗がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との直接貿易を求めるために、イスパニア(現在のスペイン)国王及びローマ教皇のもとに派遣した外交使節のこと。

「上楯城址」を散策!

上楯城

▲野生のキツネ

館山の山頂に築かれた山城で、本丸、二ノ丸、三ノ丸、曲輪、馬場跡からなる東西300m、南北200mの大型連郭式山城跡です。

遺跡の規模は、東西南北それぞれ約500mに及ぶと考えられています。

 

それではさっそく、上楯城址内をみてみましょう。

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