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宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」を取材!仙台藩の命運をかけた大航海

2021/08/05 更新

今から400年以上も前、伊達政宗の命により日本人で初めて宮城からヨーロッパへ向かった慶長遣欧使節。今回はこの時に使われた「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船を展示している、宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」を取材! 筆者が実際に訪ね、サン・ファン館の見どころを伝えいたします。

アイキャッチ出典:撮影 筆者
記事中画像:撮影 筆者

宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」とは?

石巻 サンファン館

宮城県慶長使節船(みやぎけんけいちょうしせつせん)ミュージアム「サン・ファン館」は、仙台から北東へ車を80分ほど走らせた、石巻市の渡波地区に位置しています。

 

慶長遣欧使節を乗せて太平洋を渡った、木造洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の航海を中心に、その偉業を現在そして未来へ伝える博物館です。

「慶長遣欧使節」ってなんだ?

慶長遣欧使節

出典:いらすとや(作成:編集部)

慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)とは、仙台藩初代藩主・伊達政宗が領内でのキリスト教布教を容認することを条件に、※ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との直接貿易を求め、イスパニア(現在のスペイン)国王及びローマ教皇のもとに派遣した外交使節のことです。

※ヌエバ・エスパーニャ…現在のメキシコ。16~19世紀にかけて、スペインの領地(植民地)だった。

宮城県の海
江戸時代初期の慶長18年(1613)10月28日、使節団のリーダー支倉常長(はせくらつねなが)を含む180余名を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、ヌエバ・エスパーニャを目指し、石巻市の月浦(諸説あり)を出帆しました。

 

今回の取材では、企画広報課 主任の阿部様、企画広報課学芸員の中澤様から、慶長遣欧使節について詳しく解説していただきました。お忙しいところありがとうございました!

慶長遣欧使節の旅路

サンファン館 展示

徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府が樹立したのは1603年。慶長遣欧使節が旅立ったのは、10年後の1613年に当たります。

太平洋を往復し、無事帰国を果たしたのは1620年。およそ7年にも及んだ、慶長遣欧使節の旅路を箇条書きにしました。

1613年10月28日 牡鹿半島の月浦(現在の石巻市)を出港

1614年01月25日 ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコに入港

1614年03月04日 使節の先遣隊がメキシコシティ入り

1614年03月24日 支倉らがメキシコシティ入り

1614年05月08日 メキシコシティ出発

1614年06月10日 支倉とソテロはスペイン艦隊のサン・ホセ号でサン・フアン・デ・ウルアを出港

1614年07月23日 キューバのハバナに入港

1614年08月07日 キューバのハバナを出港

1614年10月05日 スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着。ソテロの本拠地セビリアに入る

1614年10月27日 支倉はセビリア臨時市議会で使命を説明

1614年11月25日 セビリアを出発

1614年12月05日 スペインの首都マドリード入り

1615年01月30日 支倉ら使節がスペイン国王フェリペ3世に謁見

1615年02月17日 支倉がフェリペ3世臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受ける

1615年08月22日 マドリードを出発

1615年10月25日 使節団がイタリアのローマに到着

1615年10月29日 ローマへの入市式を行う

1615年11月03日 支倉とソテロらがローマ教皇パウロ5世に謁見

1615年11月20日 ローマ市が支倉らにローマ市民権証書を授与

1616年01月07日 使節団はローマを出発。再度スペインのセビリアへ向かう

1617年07月04日 使節団はセビリアを出発。アカプルコへ

1618年04月02日 迎えのサン・ファン・バウティスタ号でアカプルコを出港

1618年08月10日 フィリピンのマニラに到着。サン・ファン・バウティスタ号をマニラで売却

1618年09月02日 支倉が日本へ帰国

1620年09月20日 支倉が仙台に到着

 

日本の帆船として、はじめて太平洋を往復したサン・ファン・バウティスタ号。

使節はスペイン国王、ローマ教皇との謁見を果たしますが、結果として外交交渉は失敗に終わります。

 

その主な要因となったのは、慶長19年(1614)に江戸幕府が発令した、キリスト教禁止令です。

この情報は当然スペイン国王やローマ教皇のもとに届き、それが影響して最後まで貿易に対する回答を得ることができませんでした。

使節の派遣を決めた「伊達政宗」の想いとは?

伊達政宗 騎馬像

出典:PIXTA

なぜ伊達政宗は、メキシコやスペイン、イタリアに使節を派遣したのでしょうか? 過去に考えられてきた説を挙げてみます。

・伊達政宗の天下人への野望

・政宗が地位の確立を目指した大規模な賭け

・政宗のダメで元々の思い付き

・政宗の異国への名声誇示と南蛮征服

・徳川家康のメキシコ交易計画への亜流や追随

・計画を主導した※ソテロの演出

※ルイス・ソテロ…慶長遣欧使節の大使をつとめた、スペイン出身のフランシスコ会宣教師宣教師。

 

など、これまで上記のような現実性と具体性に欠ける理由が挙げられてきました。

近年の考え方

政宗の騎馬像 台座

▲伊達政宗騎馬像の台座に刻まれたレリーフ。航海前の支倉常長らを見送る伊達政宗。

近年では慶長三陸地震の復興政策の一環として、慶長遣欧使節の派遣が計画されたのではないか、と考えられています。

 

慶長三陸地震は、慶長16年(1611)12月2日に三陸沖北部を震源に発生した地震で、大津波が仙台領を襲い沿岸部が甚大な被害を受けました。この地震は、平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災に匹敵する規模と考えられています。

 

仙台藩の正史『貞山公治家記録』によると、

「御領内大地震、津波入る。御領内において1,783人溺死し、牛馬85匹溺死す。」

 

また徳川家康の動向を記した書『駿府記』では、

「政宗領所、海涯の人屋、波涛大いに漲り、悉く流失、溺死者5,000人、世にこれを津波と曰う。」

と記されています。

なお当時仙台領内の人口は、50万人弱と推定されています。

 

この地震により、政宗と仙台藩に突きつけられた大きな課題が、復旧と復興。仙台領の再生と発展のため、画期的な事業の実行が必要不可欠です。

その柱の1つに、外国との交流により大きな利益と活力を獲得する方策が考えられ、慶長使節を派遣したのではないかと考えられています。

「サン・ファン館」の館内をご案内

東日本大震災とサンファン館

サン・ファン館は平成8年(1996)に開館しましたが、平成23年(2011)東日本大震災の大津波によりドック棟と復元船が被災。大きな被害を受けましたが、震災から2年後の平成25年(2013)に再び開館しました。

石巻市サン・ファン・バウティスタパークの

石巻市サン・ファン・バウティスタパークのステージ脇にある階段を上り、左手に進むと館が見えてきます。

サン・ファン館の入館口

サン・ファン館 入口

こちらが入館口。階段を下りていきます。

サンファン館 受付

入館の受付です。こちらでチケットを購入します。

 

入館料

・一般(大学、各種校含む)…350円

・高校生以下…無料

※各種障がい者手帳を提示された方、及び身体・精神2級以上と療育手帳の介護者1名も入館料が免除されます。

サン・ファン・バウティスタ VR船内ツアー

サン・ファン館 VR

写真提供:サン・ファン館

現在復元船内は立ち入りできませんが、コンピューターグラフィックスによって再現されたサン・ファン・バウティスタの船の内部、上空からの映像が大型スクリーンでみられます。

 

VR船内ツアーは、館内見学前の鑑賞がオススメです。上映時間は約20分。

慶長使節展示室

サン・ファン館 内部サン・ファン館 展示室

展示室では、7年に及んだ慶長使節の足跡をくわしく紹介しています。

 

出帆から3か月で太平洋を越え、アカプルコ(現在のメキシコ)に到着した慶長使節。しかし上陸早々にメキシコ人との流血騒ぎが発生し、使節一行の刀を没収されるなど、様々なトラブルに見舞われたようです。

 

また訪問先の様子も紹介されており、1615年10月29日に行われたローマ入市式では、百発以上の祝砲がとどろき、ローマ市民から熱狂的な歓迎を受けたことなどが紹介されています。

サン・ファン館 ジオラマ展示

また人形をつかったジオラマ展示もあり、写真上は伊達政宗がお忍びで船の建造現場(月浦)に訪れた場面を再現しています。

左から支倉常長(はせくらつねなが)、伊達政宗、ルイス・ソテロ(スペインの宣教師)、セバスティアン・ビスカイノ(スペイン側の答礼使)です。

 

支倉常長は伊達家の家臣であり、慶長使節の中心人物。彼については、記事の後半でご紹介します。

ロビー

サン・ファン館 ロビー

老朽化の影響でサン・ファン・バウティスタ復元船の内部がみられません。そのため、ロビーには復元船に設置されていた見張台をはじめとした、さまざまな積載物が展示されています。

サン・ファン館サン・ファン館 槍の展示

当時は海賊が多い時代だったため、船には緊急時用に大砲や槍を積んでいたそうです。

サン・ファン館 ベットの展示

こちらは支倉常長らが使用した、ベッドと文机。ベッドは現代のものより一回り小さめで、航海中は揺れで落ちないよう足を「く」の字に曲げて寝ていたそうですよ。

慶長遣欧使節 展示

食料は米、味噌、酒。ほかには鳥獣類や魚類を干物や塩漬けなどにし、長期保存に適した加工食品を積んでいたのではないかと推測されています。

積荷は交易品や贈答品も含めると、推定で1000梱余りだったとか。ちなみに船内にはトイレが無かったそうです。

 

またロビーでは、東日本大震災の記録をパネルや映像で紹介しています。

エスカレーター棟中段「野外広場」へ

サンファン館 エスカレーター

館内を見学したあとは、外にある野外広場へ。標高差30mのエスカレーターで向かいます。

 

それにしても……な、長い!

サン・ファン・バウティスタ号

エスカレーターを降りると、写真上の復元船と海がみえてきます。

「入館記念」と書かれた日付が入ったパネルが設置されており、記念撮影にピッタリ!

サン・ファン・バウティスタ号

野外広場から、サン・ファン・バウティスタ号の復元船を間近でみることができます。

入り江に佇む帆船、前方には広大な太平洋。今から400年以上前、見知らぬ異国に向けて出帆するサン・ファン・バウティスタ号の姿が脳裏に浮かびます。

 

※平成28年4月より老朽化のため、復元船の乗船見学とドック棟への立ち入りを中止しています。

石巻市サン・ファン・バウティスタパーク

石巻市サン・ファン・バウティスタパーク

サン・ファン館に隣接しているのが石巻市サン・ファン・バウティスタパーク。

 

このパークは、支倉常長一行が訪ねたイタリア広場をイメージしたつくりになっているのが特徴です。

野外ステージを中心に、放射線状に設置された白いタイルとイタリア風の庭園が美しく、見事にマッチしています。

 

パークで、毎年5月に開催されているのが「サン・ファン祭り」。他にも毎年さまざまな野外イベントを開催しており、市民の憩いの場として親しまれています。

 

またサン・ファン館側の高台からは石巻の山々や太平洋を一望でき、高い位置からサン・ファン・バウティスタ号がみられるのも魅力です。

使節のキーマン「支倉常長」って何者?

支倉常長慶長遣欧使節の中心人物として知られているのが、伊達家の家臣・支倉常長(はせくら つねなが)。

一体どのような人物で、なぜ彼は慶長遣欧使節に選ばれたのでしょうか?

 

最後に支倉常長の生涯を、ざっくり解説します。

跡取り息子として、叔父の領地で過ごす

伊達家の家臣・山口常成の次男として、現在の山形県米沢市に誕生しました。米沢市といえば、伊達政宗の出生地でもありますね。

 

しかし山口常成の兄・支倉時正(はせくら ときまさ)の最初の妻との間に子どもが授からなかったため、常長は支倉家の家督を継いだ時正の※嗣子として養子入りしています。

※嗣子(しし)…家を継ぐべき子。あととり。

養子入りした7歳から、叔父の領地であった現在の宮城県柴田郡川崎町支倉地区に位置する上楯城(かみだてじょう)で、常長は青年期を過ごします。

 

しかしその後、支倉時正が最初の妻と離縁。迎えた後妻との間に、久成と常次という2人の男子を授かりました。
そこで伊達政宗は、常長と久成の両名に1,200石だった家禄を600石ずつとし、常長を分家させたのです。

政宗の家臣として、戦国の世を生き抜く

仙台城 二の丸跡

出典:PIXTA(仙台城二の丸跡に建つ、支倉常長の像)

その後の足跡は不透明なところが多いですが、戦国時代後期の天正17年(1589)には、宮城県北部の大名・大崎氏の元へ、政宗の使者として常長が派遣されていたり、天正18年(1590年)に発生した葛西大崎一揆では、鎮圧にあたった武将の1人として名前が記録されています。

また天正19年(1591)に政宗上洛の際、「上洛供衆」としてお供をした名簿に「はせくら六右衛門尉」という名が残されていました。

 

さらに天正20年(1592)~文禄2年(1593)の豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、伊達政宗隊の一員として朝鮮に渡っています。「※御手明衆」として20人の名があり、常長もその中の一人でした。

※御手明衆(おてあきしゅう)…特定の役目はないが必要に応じて政宗の指示で動く家臣のこと。

なぜ大使に任命されたのか?

支倉常長 

出典:いらすとや(作成 編集部)

常長が大使に任命されたいきさつは、いまだ明らかにされていません。

 

しかし手掛かりとなる史料が、昭和61年(1986)に発見されました。それは常長の実父・山口常成の切腹と、常長の追放を命じた伊達政宗自筆の書状です。

 

慶長遣欧使節の出帆直前に、政宗は常長の実父である山口常成に対し「不届きの義につき切腹」とし、連座制により息子の常長にも追放の処分を下していたのです。

 

ではなぜ政宗は、追放処分を下した常長を大使に抜擢したのでしょうか?

 

まずは、政宗が常長の能力を高く評価していたということ。そして大使に任命し、異国との貿易交渉という極めて困難な任務を命ずることと引き換えに、追放処分を取り消し、常長にチャンスを与えたのではないかと考えられています。

 

常長も実父と自身の名誉回復のため、全力を尽くす決意で任務を受け入れたのかもしれません。

常長の帰国後

支倉常長の墓

▲光明寺に眠る常長の墓

国内のキリスト教弾圧が強まる中、常長は元和6年(1620年)9月2日に帰国。伊達政宗はこの2日後に、仙台領内でのキリスト教禁止令を発令しています。

 

その後の常長の消息は不明ですが、1年後の1621年7月1日(1622年没の説もあり)病で亡くなったと伝えられています。

常長の墓といわれる墓所は宮城県内に4カ所もあり、どこに眠っているのか定かではありません。

 

<支倉常長の墓>

・光明寺(仙台市青葉区北山)

・円福寺(川崎町支倉)

・西光寺(大郷町東成田)

・宮城県大和町吉岡字西風(ならい)の五輪塔

 

常長という名前について

一般的に支倉常長で知られていますが、本人が名乗っていた記述はありません。支倉自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」と記されています。

 

「常長」の名前が登場するのは、彼の死後に支倉家が一時断絶し、寛文8年(1668年)の再興後に編さんされた、支倉家の家系図からです。
先祖がキリシタンであったことを隠すため、後世の子孫が「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記した可能性があると考えられています。

復元船の解体は2021年の秋以降に

サン・ファン・バウティスタ号

2021年、県は宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」の全面的な改修に乗り出します。

 

老朽化が進む木造復元船「サン・ファン・バウティスタ号」の解体は、2021年の秋以降に着手される予定。

復元船の後継船として、繊維強化プラスチック(FRP)製で、実物の4分の1という大きさのものが製造されるそうです。

 

サン・ファン館は今後、展望棟やドック棟を一新。リニューアルオープンは2024年度を予定しています。

 

伊達政宗の壮大な夢を乗せて出帆した慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ号」。この400年以上前の偉業を、あなたもサン・ファン館で感じてみませんか。

 

今回取材させていただいたのは、宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」

所在地:

〒986-2135 宮城県石巻市渡波字大森30-2

電話番号:

0225-24-2210

開館時間:

9:30~16:30

※最終入館は閉館の30分前まで
※8月中は17:30まで延長開館

休館日:

毎週火曜日(祝日を除く)

年末年始

アクセス:

<電車・タクシー>

JR石巻線で「渡波駅」からタクシーで約5分
<車>
三陸自動車道「石巻河南I.C」から約30分

駐車場:

無料/乗用車約300台、大型バス可

サン・ファン館の公式サイトはこちら

 

■石巻周辺で1泊しよう!

石巻市にはビジネスホテルや、リーズナブルな価格で宿泊できるカジュアルなホテルが点在しています。駅周辺は鮨屋をはじめ飲食店が充実しており、食事には困りません。

石巻市に1泊して、翌日は牡鹿半島や女川方面まで足を運んでみてはいかがでしょうか?

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石巻 サンファン館
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札幌出身で趣味はギター。前職の転勤で仙台に移り住み、気が付いたらもう30年になります。仙台は海の幸や山の幸も美味しく、とても暮らしやすい所です。そんな仙台の魅力や地元ならではの情報をお届け致します。

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