石巻 サンファン館
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宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」とは?

石巻 サンファン館

宮城県慶長使節船(みやぎけんけいちょうしせつせん)ミュージアム「サン・ファン館」は、仙台から北東へ車を80分ほど走らせた、石巻市の渡波地区に位置しています。

 

慶長遣欧使節を乗せて太平洋を渡った、木造洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の航海を中心に、その偉業を現在そして未来へ伝える博物館です。

「慶長遣欧使節」ってなんだ?

慶長遣欧使節

出典:いらすとや(作成:編集部)

慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)とは、仙台藩初代藩主・伊達政宗が領内でのキリスト教布教を容認することを条件に、※ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との直接貿易を求め、イスパニア(現在のスペイン)国王及びローマ教皇のもとに派遣した外交使節のことです。

※ヌエバ・エスパーニャ…現在のメキシコ。16~19世紀にかけて、スペインの領地(植民地)だった。

宮城県の海
江戸時代初期の慶長18年(1613)10月28日、使節団のリーダー支倉常長(はせくらつねなが)を含む180余名を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、ヌエバ・エスパーニャを目指し、石巻市の月浦(諸説あり)を出帆しました。

 

今回の取材では、企画広報課 主任の阿部様、企画広報課学芸員の中澤様から、慶長遣欧使節について詳しく解説していただきました。お忙しいところありがとうございました!

慶長遣欧使節の旅路

サンファン館 展示

徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府が樹立したのは1603年。慶長遣欧使節が旅立ったのは、10年後の1613年に当たります。

太平洋を往復し、無事帰国を果たしたのは1620年。およそ7年にも及んだ、慶長遣欧使節の旅路を箇条書きにしました。

1613年10月28日 牡鹿半島の月浦(現在の石巻市)を出港

1614年01月25日 ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコに入港

1614年03月04日 使節の先遣隊がメキシコシティ入り

1614年03月24日 支倉らがメキシコシティ入り

1614年05月08日 メキシコシティ出発

1614年06月10日 支倉とソテロはスペイン艦隊のサン・ホセ号でサン・フアン・デ・ウルアを出港

1614年07月23日 キューバのハバナに入港

1614年08月07日 キューバのハバナを出港

1614年10月05日 スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着。ソテロの本拠地セビリアに入る

1614年10月27日 支倉はセビリア臨時市議会で使命を説明

1614年11月25日 セビリアを出発

1614年12月05日 スペインの首都マドリード入り

1615年01月30日 支倉ら使節がスペイン国王フェリペ3世に謁見

1615年02月17日 支倉がフェリペ3世臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受ける

1615年08月22日 マドリードを出発

1615年10月25日 使節団がイタリアのローマに到着

1615年10月29日 ローマへの入市式を行う

1615年11月03日 支倉とソテロらがローマ教皇パウロ5世に謁見

1615年11月20日 ローマ市が支倉らにローマ市民権証書を授与

1616年01月07日 使節団はローマを出発。再度スペインのセビリアへ向かう

1617年07月04日 使節団はセビリアを出発。アカプルコへ

1618年04月02日 迎えのサン・ファン・バウティスタ号でアカプルコを出港

1618年08月10日 フィリピンのマニラに到着。サン・ファン・バウティスタ号をマニラで売却

1618年09月02日 支倉が日本へ帰国

1620年09月20日 支倉が仙台に到着

 

日本の帆船として、はじめて太平洋を往復したサン・ファン・バウティスタ号。

使節はスペイン国王、ローマ教皇との謁見を果たしますが、結果として外交交渉は失敗に終わります。

 

その主な要因となったのは、慶長19年(1614)に江戸幕府が発令した、キリスト教禁止令です。

この情報は当然スペイン国王やローマ教皇のもとに届き、それが影響して最後まで貿易に対する回答を得ることができませんでした。

使節の派遣を決めた「伊達政宗」の想いとは?

伊達政宗 騎馬像

出典:PIXTA

なぜ伊達政宗は、メキシコやスペイン、イタリアに使節を派遣したのでしょうか? 過去に考えられてきた説を挙げてみます。

・伊達政宗の天下人への野望

・政宗が地位の確立を目指した大規模な賭け

・政宗のダメで元々の思い付き

・政宗の異国への名声誇示と南蛮征服

・徳川家康のメキシコ交易計画への亜流や追随

・計画を主導した※ソテロの演出

※ルイス・ソテロ…慶長遣欧使節の大使をつとめた、スペイン出身のフランシスコ会宣教師宣教師。

 

など、これまで上記のような現実性と具体性に欠ける理由が挙げられてきました。

近年の考え方

政宗の騎馬像 台座

▲伊達政宗騎馬像の台座に刻まれたレリーフ。航海前の支倉常長らを見送る伊達政宗。

近年では慶長三陸地震の復興政策の一環として、慶長遣欧使節の派遣が計画されたのではないか、と考えられています。

 

慶長三陸地震は、慶長16年(1611)12月2日に三陸沖北部を震源に発生した地震で、大津波が仙台領を襲い沿岸部が甚大な被害を受けました。この地震は、平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災に匹敵する規模と考えられています。

 

仙台藩の正史『貞山公治家記録』によると、

「御領内大地震、津波入る。御領内において1,783人溺死し、牛馬85匹溺死す。」

 

また徳川家康の動向を記した書『駿府記』では、

「政宗領所、海涯の人屋、波涛大いに漲り、悉く流失、溺死者5,000人、世にこれを津波と曰う。」

と記されています。

なお当時仙台領内の人口は、50万人弱と推定されています。

 

この地震により、政宗と仙台藩に突きつけられた大きな課題が、復旧と復興。仙台領の再生と発展のため、画期的な事業の実行が必要不可欠です。

その柱の1つに、外国との交流により大きな利益と活力を獲得する方策が考えられ、慶長使節を派遣したのではないかと考えられています。

「サン・ファン館」の館内をご案内

東日本大震災とサンファン館

サン・ファン館は平成8年(1996)に開館しましたが、平成23年(2011)東日本大震災の大津波によりドック棟と復元船が被災。大きな被害を受けましたが、震災から2年後の平成25年(2013)に再び開館しました。

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