岩出山城の歴史

政宗が移る前の岩出山城は、「岩手沢城」と呼ばれていました。

室町時代の応永年間(1394年~1428年)に、※奥州探題・大崎氏の家臣だった氏家直益が築城したと考えられています。

※奥州探題(おうしゅうたんだい)…陸奥国の統括を担っていた、室町幕府の役職の1つ。

奥州へ移った氏家氏

氏家(うじいえ)氏は、下野国(現在の栃木県)の勝山城(かつやまじょう)の氏家氏から出た一族で、先祖は※藤原北家宇都宮氏。

南北朝時代は足利氏の有力一門の斯波(しば)氏の被官(家人)となり、越中国(現在の富山県)で活躍したといわれています。

 

そこで南朝の重鎮だった新田義貞(にった よしさだ)を討ち取り、恩賞で与えられた美濃(現在の岐阜県南部)を治めたといい、これが美濃氏家氏のはじまりといわれています。

氏家氏は下野国に留まるもの、美濃へ移ったもの、後に奥州探題となる斯波氏とともに陸奥国へ下るものに分かれました。

重臣から反乱軍へ

陸奥国の氏家氏は貞和5年(1349)、室町幕府初代将軍・足利尊氏の命で、斯波氏の後継である大崎氏の監司(執事)に任じられ、岩出山城の城主になった、と※『伊達世臣譜略』には記されています。

 

その後も大崎氏を支え、重臣となった氏家氏。大崎氏は奥州有数の有力大名となり、伊達氏や最上氏、蘆名氏や葛西氏などと抗争を続けていました。

しかし戦国時代になると大崎氏の領内で内部分裂が起こり、氏家氏も次第に主君へ反抗心を抱くようになります。

 

そして天文3年(1534)、岩手沢城の城主・氏家直益がついに大崎氏へ反旗を翻したのです。

氏家氏をはじめとする反乱軍の猛攻に、自力での鎮圧を断念した大崎氏は、天文5年(1536)伊達氏に援軍を要請します。当時の伊達氏当主は、14代目の伊達稙宗(だて たねむね)でした。

 

一時は反乱軍が優勢だったものの、伊達氏の介入で情勢は暗転。直益は岩手沢城に2か月間籠城しましたが、結果は落城となります

しかしこの反乱は大崎氏家中らを動揺させ、その後も領内で権力争いや小競り合いが続き、大崎氏の勢力は衰退の一途をたどるのです。

大崎氏の大名滅亡、氏家氏は伊達氏に仕える

そして天正14年(1586)、大崎氏当主・大崎義隆(おおさき よしたか)の寵臣の対立が原因で、再び内紛が勃発。

今度は岩手沢城城主・氏家吉継(うじいえ よしつぐ)が伊達政宗に援軍を要請します。

 

政宗は5千とも1万ともいわれる大軍を送りますが、結果は氏家氏・政宗軍の大敗。大崎氏は政宗を追い返すことに成功しますが、内乱の傷は深く、勢力は衰退していきます。

そのため小田原合戦には参陣せず、奥州仕置の対象となり大名としての大崎氏は滅亡。

 

一方岩出山城の城主・氏家吉継は紆余曲折あって伊達家に仕えることになりますが、彼の死で氏家氏の嫡流は途絶えたと考えられています。

※藤原北家宇都宮氏…平安時代中期の公卿・藤原道兼(ふじわらのみちかね)の子孫とする嫡流。下野宇都宮氏(しもつけうつのみやし)ともいう。

 

※『伊達世臣譜略』……仙台藩が編集した家臣の系譜を収めたもの。

政宗は12年間岩出山で過ごす

秀吉により大崎氏の旧領に封じられた木村吉清、その家臣である荻田三右衛門が城主となりました。

しかし前半で紹介した「葛西大崎一揆」を鎮圧した功として、秀吉から旧葛西・大崎領を与えられた政宗。

 

城を渡された政宗は、岩手沢から岩出山(いわでやま)と改めました。この時期に政宗は「大崎少将」を名乗っています。

 

翌年の文禄元年(1592)政宗は岩出山城で正月を迎えました。

しかし、この年の3月には朝鮮出兵の一軍として九州へ。その後、文禄4年(1595)4月まで岩出山城を留守にしています。

 

政宗は慶長8年(1603)仙台城へ移るまでの12年間、岩出山城を居城としました。

 

そして、政宗が移った後の岩出山城は、政宗の4男である伊達宗泰(だて むねやす)を初代とした岩出山伊達家が居住。明治維新まで続きました。

岩出山城の規模はどれくらい?

岩出山城 石垣

▲園内にのこる岩出山城の土塁

岩出山城(いわでやまじょう)は仙台市内から北へ約60km離れた、宮城県大崎市岩出山にあります。

現在は城山公園として整備されており、麓には藩校であった「有備館(ゆうびかん)」があります。

 

車だと仙台市内から約65分です。最寄り駅であるJR陸羽東線「有備館駅」からは徒歩約13分。

有備館については、ぜひこちらの記事をご覧ください!

 

岩出山城は陸前丘陵の東端部、標高108mにつくられた典型的な山城で天然の要害です。東西約800m、南北約700mあったと考えられています。

本丸と二の丸を中心として三の丸もつくられ、北側は断崖絶壁、その下を政宗がつくった内川が流れています。

 

また南東には約10m幅の濠をめぐらし、その内側には二の構と称する鍵型の土塁。内川の外側も一の構と称する土塁で囲まれています。

敵の侵入を防ぐ「空堀」が、西と東側に設けられていました。

岩出山城跡を散策!今どうなっているの?

写真は岩出山城の登り口。こちらから車で本丸跡まで行けます。岩出山町役場があったところで、現在は駐車場です。

こちらから徒歩でも行けるので、運動がてら歩くのもいいかもしれませんね。

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