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北目城と毘沙門天
仙台市民にとってなじみ深い、毘沙門天が祀られている「金光山 満福寺(こんこうざん まんぷくじ)」。
実はもともと岩手県の平泉にあったそうですが、同県の一関市、仙台市泉区松森、北目城を経て、荒町の地に落ち着きました。
では、なぜ毘沙門天は平泉から仙台へと転々としたのでしょうか?
今回筆者は北目城と満福寺を訪ね、その歴史を紐解いていきたいと思います。
なぜ平泉から仙台へ?毘沙門天の変遷を探る
「毘沙門天像」は、奥州藤原氏の第3代当主・藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)が、安元元年(1175~1176)に※仏師・運慶につくらせたともの、と伝えられています。
藤原氏の守本尊として、磐井郡平泉(現岩手県平泉)に祀られていました。
その後文明年間(1469~1487)に、粟野氏6代当主・粟野国定(あわの くにさだ)によって、毘沙門天は北目城(きためじょう)に移されます。
粟野氏は北目城を拠点し、仙台市南東部一帯に勢力を張った一族。藤原氏の子孫という説もあるようです。
いまだ謎に包まれている
史料によると、毘沙門天は現在の岩手平泉から岩手一関や仙台松森を経て北目城に移ったとされています。
しかし一関と松森は、いつ、だれが、どのような理由で写したのか、経緯は明らかにされていません。
続いては、毘沙門天を仙台市にもたらした粟野氏についてみていきましょう!
粟野氏って何者?
毘沙門天を北目城に移した粟野氏、一体何者だったのでしょうか?
粟野氏に関するが史料が少なく、はっきりわかっていない部分が多いのですが、残る史料をもとに粟野氏の歴史をお伝えいたします(参考:仙臺市史2、3)。
5代まで「茂ヶ崎城」
粟野氏は、もともと越中国(富山県)粟野庄の住人で、越前国(現在の石川県と福井県の北部)を本領としていました。
のちに鎌倉幕府に対する忠誠の功により、奥州伊達郡に所領を賜り移住します(現福島県伊達市梁川町に粟野の地名あり)。
南北朝時代(1336年~1392年)に名取郡の地を賜り、康永2年(1343)に茂ヶ崎城(もがさきじょう/根岸城・現太白区大年寺山)へ移住。以降5代にわたり、茂ヶ崎城を居城としました。
伊達氏の一族!?
伊達氏の系譜に、1人だけ粟野性を名乗っている人物がいます。伊達氏3代当主の伊達義広(だて よしひろ)です。
別名で粟野次郎を名乗っていました。
伊達氏は※高子岡城から粟野大館へ移り、義広が館主としています。粟野氏は伊達義広の子孫で、伊達氏の一族であると記す史料もありますが、はっきりとわかっていません。
※高子岡城(たかこがおかじょう)…初代伊達氏当主・伊達朝宗(だて ともむね)が築いたとされる城。福島県伊達市にあり、伊達氏発祥の地と言われている。
6代当主・粟野国定
室町時代、粟野氏は陸奥国大崎氏に仕えます。留守氏や国分氏の家臣だったという記録もありました。
寛正年間(1460~1466)北目城に移動し、居城。文明14年(1482)粟野国定の代に、伊達氏12代当主・伊達成宗(だて しげむね)に敗れ服属します。
しかし当時仙台地方を治めていた留守氏や国分氏と同様、粟野氏も独立領主の地位を保持したままでした。
7代当主・粟野高国、8代当主・粟野長国
次に跡を継いだのが国定の嫡男である、粟野氏7代当主の粟野高国(あわの たかくに)。
享禄5年(1532)伊達氏14代当主の伊達稙宗(だて たねむね)に従い、小手森の合戦に出陣し戦死しています。
跡を継いだのが高国の嫡男、粟野氏8代当主の粟野長国(あわの ながくに)。天文年間(1532~1555)には伊達氏の大老臣となったとされています。
9代当主・粟野宗国(重国)
長国の死後に跡を継いだのが、粟野氏9代当主の粟野宗国(あわの むねくに)/重国(しげくに)。
家督を継いで間もない永禄年間(1558~1570)。伊達氏から粟野氏へ御仕置があったという記録があります。
具体的な内容は明らかにされていませんが、当時の宗国はまだ幼少でした。
支配力を高めたい伊達氏はこれを契機と定め、仕置を実施したのではないかと考えられています。
この御仕置により、粟野氏は伊達氏に所領の一部を接収され、伊達氏家中に組み込まれていきます。
粟野氏の所領替え
天正19年(1591)、豊臣秀吉の命で米沢から岩出山(いわでやま/現在の宮城県大崎市)へ移封となった伊達政宗(だてまさむね)は、家臣に対し大幅な知行(領地)替えと家禄(給料)の削減を行いました。
これにより粟野宗国は、磐井郡大原(現岩手県一関市)へ所領替えとなります。
仙台市南部の北目領と呼ばれる地域を支配し、「名取郡北方三十三郷旗頭」と呼ばれた粟野氏。名取郡北方の旗頭と称されたかつての面影はなく、粟野氏は北目城を去りました。
岩出山城について、詳しく知りたい方こちら!
粟野清蔵(重清、重次)は改易
その後、粟野氏は亘理氏(当時の涌谷伊達氏)から養子に入ります。宗国の跡を継いだのが粟野清蔵(あわの きよぞう)。
慶長19年(1614)、清蔵は政宗の庶長子・伊達秀宗(だて ひでむね)とともに宇和島へ行くよう命じられますが、清蔵は従わず罰として改易となってしまいます。
しかし宇和島藩へ※近習として付属された諸士と宇和島伊達藩57騎に、粟野清蔵の名が刻まれていました。
つまり改易となったものの、清蔵は宇和島に行ったということになります。
のちの仙台藩2代藩主・伊達忠宗(ただむね)の代に仙台への帰参が許され、実家である亘理氏を頼ったそうです。
毘沙門天にまつわる伝説
こちらは北目城跡の近くに今も残る「旧毘沙門堂」。
仙台市太白区郡山にある、毘沙門天の旧鎮座地です。
毘沙門天が荒町へ移された現在も大切に保存されており、地域住民に親しまれ信仰されています。
まだ毘沙門天が北目城近くにあったころ、こんな伝説が伝わっています。
政宗も恐れた、毘沙門天パワー
それは北目城の城主が、粟野氏だったころ。
伊達政宗は幾度となく北目城を攻めるものの、なかなか落とせず苦戦を強いられていました。
敗戦の度に家臣らは、「城に蜘蛛の巣が垣根みたいに巻きついていて寄りつけない」「黒い雲が空から降りてきて城をすっぽり隠してしまった」などと話しています。
この不思議な話を聞いた政宗は、密偵を送り粟野氏の周辺を探らせました。
すると、郡山の毘沙門天を厚く信仰していることが分かります。
これを知った政宗は、「ならば、わしもその毘沙門天に願をかけよう。もし粟野に勝てたなら、我が城下に立派な毘沙門堂を建立しようぞ」と勝利を祈願します。
願いが叶ったのか、はたまた粟野氏の軍勢が力尽きたのか。北目城はついに落城します。
※伊達政宗が北目城を落とした、という記録は史料にはありません。あくまで伝説です。
毘沙門さま、政宗に捨てられる
喜んだ政宗は、さっそく毘沙門天を担いで城に帰ることにしました。
ところが途中、急に一抹の不安が胸をよぎります。
「毘沙門天のご利益は大したものじゃ。しかし、誰かがこのわしを倒せと祈願したら、それも叶ってしまうのであろう。持ち帰るのはあぶない!」
なんと政宗は、近くの堀にエイッと毘沙門天を投げ捨ててしまったのです。
その後、子供たちが堀からこれをみつけ憐み、町の人たちの手でお堂が建てられました。
それが今の荒町にある毘沙門堂になったといいます。
いやはや何ともこの毘沙門天さま、侍には嫌気がさしたのかその後は戦の願かけに耳を貸さなくなったとか……。
【旧毘沙門堂の基本情報】
所在地:
〒982-0003 仙台市太白区郡山字穴田東
アクセス:
<バス>
仙台駅から市営バス「荒井駅行」に乗車(約16分)「若林七丁目」で下車、徒歩約21分
<車>
仙台南部道路 長町I.Cより車で約3分
駐車場:
なし
政宗、毘沙門天に勝利祈願をする
伝説とはいささか異なりますが、史料にはこう残されています。
戦国時代末期にあたる慶長5年(1600)。伊達政宗は上杉軍を討つべく「白石城(しろいしじょう)」へ出陣します。その際、毘沙門天に勝利を祈願したそうです。
政宗は”願いが叶ったら堂宇を建立する”と約束しました。そして願いは叶い、政宗は上杉軍を退けることに成功。念願の白石城の奪還に成功します。
戦後、政宗は毘沙門天の堂宇にふさわしい場所を探しますが、なかなか良い場所がみつかりません。
その後、寛永3年(1626)仙台城下の荒町に仮堂が建てられ、政宗は毘沙門天像を北目城から移します。
そして政宗の遺言により、寛永20年(1643) 仙台藩2代藩主の伊達忠宗(だて ただむね)によって現在の毘沙門堂が建てられました。
その※別当寺(べっとうじ)として満福寺が開山。現在の毘沙門堂は明治37年(1904)に焼失しましたが、大正5年(1916)に再建されました。
毘沙門天とは?
そもそも毘沙門天はどのような神様なのかを、改めたいと思います。
四天王(してんのう)
ポケ〇ンのゲームに登場する、最後の関門ではありません。
四天王とは仏教の世界を守る神のことで、東西南北の方角に分かれてこの世界を守っています。
毘沙門天は北の守護神。多聞天はお釈迦様の教えを1番多く聞いていたことから、多聞天(たもんてん)という名前になったとか。
また毘沙門天は、四天王の中でも最強とされています。
お寺などでみかける毘沙門天の像は、鎧や甲冑を身に着けた勇ましい姿をしている印象がありますよね。
軍神の異名をもつ戦国武将・上杉謙信(うえすぎ けんしん)は、自身を毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、厚く信仰していたと言われています。
十二天(じゅうにてん)
十二天とは、仏法や仏教徒を守る12神のこと。東西南北、東北、東南、西北、西南の8方角を守る8神と、天地を守護する2神、日月を守護する2神を加えた、総勢12神です。
毘沙門天は四天王と同様、「北の守護神」という役目を担っています。
七福神
七福神とは、清廉、有福、威光、愛敬、人望、寿命、大量という7つの福を人々にもたらす神様のこと。
七福神の1神でもある毘沙門天は、人を従わせ恐れさせる力「威光」を意味しています。
仙台市内には、毘沙門天を含む七福神が祀られている寺社が7ヵ所あり、総称して「奥州仙臺七福神(おうしゅうせんだいしちふくじん)」と呼んでいます。
そんな仙台各所で祀られている七福神が、正月4日~6日の間だけ仙台の老舗百貨店「藤崎」に大集合!
「奥州仙臺七福神出開帳」と呼ばれ、期間中は各寺社の御朱印(書き渡し)や御守りなどが販売されます。
■第36回 奥州仙臺七福神出開帳
時間:10:00~19:00(最終日は16:00まで)
場所:藤崎本館7階催事場
荒町の毘沙門堂(満福寺)に行ってみた!
こちらが仙台市若林区荒町にある「満福寺(まんぷくじ)」。京都にある真言宗智山派の総本山「智積院(ちしゃくいん)」の末寺で、北目城から移された毘沙門天が祀られています。
奇縁二天石
鳥居のすぐ左手にある、こちらの石柱。”奇縁二天石(きえんにてんせき)”と呼ばれるもので、嘉永3年(1850)に仙台藩の医師・棟方玄栄(むねかた げんえい)が建立しました。
石柱には「をしゆる方」反対側には「たづぬる方」と刻まれています。これは「たづぬる方」に尋ねごと(迷子など)を記した紙を張り、それを思い当たる人が「をしゆる方」に返信を書いた紙を貼る、というように使われたいました。
現在でいう求人広告塔や掲示板のような役割をしていた、といわれています。江戸時代、この荒町界隈がいかに栄えていたかが分かりますね。
毘沙門堂唐門(びしゃもんどうからもん)
鳥居をくぐり、まっすぐ進むと「毘沙門堂唐門(びしゃもんどうからもん)」が現れます。
この門は平唐門(ひらからもん)と呼ばれるもので、一間一戸の※本瓦葺(ほんがわらぶき)屋根の側面に、唐破風(からはふ)がみられます。
破風(はふ)とは、屋根の妻側(棟の直角にあたる側面)につけられた山形の板のこと。
唐破風とは、そり曲がった曲線状の破風を指します。
満福寺の場合は写真上の正面でなく、側面に唐破風のある簡素な造りです。
唐門としては一段古い形式で、建てられたのは江戸時代中期頃と考えられています。平成8年(1996)に仙台市の有形文化財に指定されました。
唐門をくぐり境内へ。写真中央にそびえる木はクロマツで、樹齢は約300年。クロマツのそばに毘沙門堂があります。
毘沙門堂
こちらが「毘沙門堂」。江戸時代初期にあたる寛永20年(1643)に造営されましたが、明治37年(1904)の火災で焼失。大正5年(1916)に再建されました。
堂内に祀られている「毘沙門天像」は、仏師・運慶の作と伝えられています。木製の像で高さ2.7m、真っ黒い姿をしているようですが、普段はそのお姿をみることができません。
12年に1度の寅年に御開帳されるので、その時が訪れるのを待つしかありませんね…。
百八体毘沙門堂と子安観音堂
毘沙門堂の左手に2つのお堂が並んでいます。左が「子安観音堂」右が「百八体毘沙門堂」。お堂内には小さな毘沙門天像が祀られています。
百八体毘沙門堂には名前通り、百八体の小さな毘沙門天が祀らています。
満福寺の本堂と御朱印
地元では「荒町の毘沙門さん」と親しまれている満福寺の本堂です。
御朱印は、本堂の右手にある社務所でいただけます。なんと無料で、セルフ方式のスタンプ押印タイプ。
毘沙門天のスタンプは、中央に押すのが正しいようです。
毘沙門堂は仙台相撲興行の中心地だった!?
仙台藩には相撲興行場が5ヵ所あり、毘沙門堂はそのうちの1つでした。
藩内で最も多くの相撲興行が行われ、仙台相撲興行の中心地としても栄えたのです。
このような繋がりもあり、境内には気仙沼出身の第9代横綱・秀ノ山雷五郎(ひでのやま らいごろう)の供養碑や、立行司の6代目・式守伊之助(しきもり いのすけ)の墓があります。
満福寺の日限地蔵
毘沙門堂の裏手にある「日限地蔵(ひぎりじぞう)」。会津から始まった日限地蔵は全国に存在しますが、仙台にあるのは「満福寺」のみでした。
願いを叶えたい日に祈願すると、願い事が叶うそうですよ。
満福寺の駐車場
満福寺の駐車場へは、唐門の左側にある小道を通り、本堂に向かうとあります。毘沙門天堂の左後ろ側が駐車場です。
正面側はチェーンがかかっていて入れませんので、ご注意ください。
満福寺のアクセス
所在地:
〒984-0073 仙台市若林区荒町206
アクセス:
<バス>
仙台駅より市営バス「薬師堂駅行」に乗車(約5分)「荒町」で下車し徒歩で約1分
<車>
東北自動車道 仙台宮城I.Cから約16分
駐車場:
無料/約30台
■仙台に宿泊して、奥州仙臺七福神をめぐろう!
今回ご紹介した満福寺は、奥州仙臺七福神めぐりの一カ所です。
すべて市内の中心部周辺にあるため、1日あれば七か所ある寺院すべてまわることができます。
ぜひ福が来る奥州仙臺七福神めぐりへ出かけませんか?
市内にはリーズナブルな価格で宿泊できるビジネスホテルや、カプセルホテルなどが充実しています。ぜひチェックしてみてくださいね!
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毘沙門天は「軍神・守護神」から「子育ての神」へ
毘沙門天は荒町に移されてから「子育ての神」として多くの方が参拝に訪れます。
「軍神・守護神」から「子育ての神」と崇められる毘沙門天。この変化は戦国時代が終わり、平和な世を迎える当時の社会情勢を反映しているのかもしれませんね。