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「伊達政宗」どんな人だった?功績から逸話まで70年の生涯を追う

“戦国武将にして、初代仙台藩主「伊達政宗」。乱世は戦場を駆け抜け、平時は領地経営に勤しみ、大都市・仙台の礎を築き上げた。まさに歴史に名を残す偉人です。この記事では、政宗公の性格がわかる逸話を交えながら、築いた功績やその生涯を紹介します。

アイキャッチ画像出典:写真提供:宮城県観光プロモーション推進室

伊達政宗って何をした人?

伊達政宗 辞世の句

「曇りなき 心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」

(暗闇の中、月の光を頼りに前へ進むように、先のみえない戦国の乱世を、自分の信念だけを頼りに生きてきた、そんな人生だったなぁ。)

 

という辞世の句を残し、70年間の生涯を閉じた伊達政宗(だて まさむね)。

この句のとおり、政宗公の半生は戦の絶えない戦国時代であり、その生涯は波乱に満ちたものでした。

伊達政宗 騎馬像

出典:PIXTA

戦国武将として南奥州(山形県、宮城県、福島県の一部)を駆け巡り、戦のない江戸時代では仙台藩62万石を治める為政者として活躍した政宗公。

この記事では、政宗公の波乱万丈なヒストリーや、彼の人柄や性格がわかる逸話などを紹介します。

 

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伊達政宗の生涯(幼少期)

伊達政宗騎馬像 仙台夜景

写真提供:宮城県観光プロモーション推進室(宮城県仙台市「仙台城跡」に立つ伊達政宗の騎馬像)

1567年(永禄10)伊達政宗は、出羽国米沢城(山形県米沢市)で誕生しました。

政宗公は、信長、秀吉、家康より約30歳前後も年下。生まれた頃は、戦国時代も終盤にさしかかっていました。

 

「もし政宗が10年早く生まれていたら、日本史は変わっていたかもしれない」という意見も少なからずあり、そんな考察をしたくなる魅力的な武将だったことには違いありません。

伊達政宗 家系図

作成:編集部

父は伊達氏16代当主・伊達輝宗(だて てるむね)、母は出羽国の戦国大名・最上義守(もがみ よしもり)の娘という、まさに奥州の名家から誕生したサラブレッドでした。

コンプレックスまみれだった幼少期

伊達政宗

撮影:編集部

そんな政宗公ですが、「梵天丸(ぼんてんまる)」と名乗っていた幼少の頃、天然痘を患い右目の視力を失ってしまいます。

 

天然痘は、ウイルスを病原体とする感染症の一つ。全身に膿疱(のうほう/膿が溜まった盛り上がり)が発生し、感染者の4~5割が亡くなる恐ろしい病でした。

幸い一命を取りとめたものの、目の部分にできた膿疱が原因で失明したといわれています。

見えなくなった右目は白濁し(飛び出していたという説もあり)、自分の顔が他人と違うと感じた梵天丸は、自身の容姿を醜いと思っていたようです。

 

どんどん卑屈になっていき、見兼ねた家臣・片倉景綱(小十郎)が、梵天丸の眼球を切り取ろうとした、という逸話が残されています。(諸説あり)

生涯の師との出会い

コンプレックスを抱えた内気な少年を変えたのは、父・伊達輝宗によって招かれた美濃(岐阜県)の名僧、虎哉宗乙(こさい そういつ)です。

虎哉宗乙は文芸の師として、仏教、漢学、文学など学問の手ほどきを行うだけでなく、梵天丸に「武将としての生き方」を示しました。

 

「痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」

 

人の上に立つ者、暑いと言って戦の場で鎧兜を脱ぐなど、戦にならず。己の不平不満を表に出していては、家臣を率いる大将の器に足りない。辛抱・我慢が重要である。

という虎哉宗乙の訓辞です。

 

梵天丸は師の教えを胸に刻み、己の弱さを克服する努力をしていきました。

 

ちなみに、幼い頃から学問を積んだ政宗公は、漢詩・和歌・能など文学の教養が深く、その実力は京の歌人に引けをとらなかったといわれています。

伊達政宗の生涯(壮年期)

仙台城跡

写真提供:宮城県観光プロモーション推進室(復元された仙台城の大手門)

1577年(天正5)元服を迎えると、「伊達藤次郎政宗」と名付けられます。「次郎」は伊達氏当主代々が名乗ってきたものであり、「政宗」は衰えていた伊達家を再興させた9代当主・伊達政宗(大膳大夫)にあやかったようです。

13歳、愛姫と結婚

結婚 女性

1579年(天正7)、田村郡美春(福島県美春町)の城主・田村清顕(たむら きよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚します。

 

政宗公13歳、愛姫12歳の頃です。愛姫の実母は、伊達氏と軍事衝突を繰り返している相馬氏14代当主・相馬顕胤(そうま あきたね)の娘で、相馬氏側の勢力を切り崩すための政略結婚でした。

 

結婚後、愛姫は時の政権(天下人)と良好な関係を保つため、政宗公の人質として各地を転々とする生涯を送ります。

共に過ごすより、離れ離れで過ごす時間の方が長かった夫婦ですが、4人の子供に恵まれました。

15歳、初陣

丸森町

出典:PIXTA(宮城県伊具郡丸森町)

1581年(天正9)、政宗公は15歳で初陣を飾ります。その舞台となったのは、現在の宮城県伊具郡丸森町の辺り。

 

1576年(天正4)以降、この地をめぐり伊達氏と相馬氏(福島北部を支配していた大名)の間で激しい攻防が繰り広げられていました。

政宗公の初陣も相馬氏との戦で、丸森町は「伊達政宗 初陣の地」という看板が立っています。

 

政宗公の初陣から1年後、1582年(天正10)本能寺の変で織田信長が家臣・明智光秀に討たれます。

18歳、家督を継ぎ伊達氏当主に

1585年(天正12)、父・輝宗の隠居にともない、政宗公は家督を相続。第17代伊達氏当主となります。

 

しかしその翌年、悲劇が訪れたのです。

19歳、父・輝宗の射殺事件(諸説あり)

福島県 二本松城

出典:PIXTA(福島県二本松市「二本松城」)

事の発端は1585年(天正13)、伊達氏に降参した二本松城(福島県二本松市)の城主・畠山義継(はたけやま よしつぐ)が、宮森城(福島県二本松市)で隠居していた伊達輝宗のもとを訪ねました。

しかしその帰り際に輝宗公を捕まえ、自身の城に連れ去ろうとしたのです。

 

その当時、小浜城(福島県二本松市)にいた政宗公は、知らせを聞いてすぐに駆けつけますが、すでに手に負えない状態でした。

結果、取り囲んだ伊達勢が鉄砲を撃ち、畠山義継と主従50名、そして父・輝宗公もろとも撃ち殺したといわれています。

 

事件の真相は諸説あり、輝宗が「わしごと撃て!」と叫んで撃った、到着したときには輝宗はすでに死んでいたなど、その死因は明らかにされていません。

南奥州の覇者へ

鶴ヶ城

出典:PIXTA(福島県会津若松市の「若松城(鶴ヶ城)」)

以降、政宗公は積極的に領土拡張へと身を乗り出します。

東北の諸大名と合戦を繰り広げ、1589年(天正17)には強敵だった会津の葦名(あしな)氏を破り、奥羽の半分を支配するまでに至ります。

 

わすが数年の間に、福島、山形、宮城の3県にわたり、広大な勢力圏を築き上げたのです。

実母による毒殺事件(諸説あり)

毒をつくる女性 イメージ

そんな最中、1590年(天正18)に政宗公の命に関わる事件が起こります。実母・義姫(よしひめ)による、伊達政宗毒殺未遂事件です。

義姫はかねてより可愛がっていた政宗公の弟・小次郎を伊達家の跡継ぎにすべく、政宗公の毒殺を企みました。

 

しかし政宗公は幸いにも一命を取り留め、毒殺は失敗。

伊達家が分裂しないよう、政宗公はやむなく弟の小十郎を自らの手で斬り殺します。

 

というのが、一般的に知られている伊達政宗毒殺未遂です。

 

しかし近年の研究によると、この事件は捏造されたものではないのか?という疑惑が浮上しています。

というのも、事件が事実であれば政宗公と義姫の仲は険悪だと思われますが、後世で発見された手紙には互いを想い合う、親子愛あふれる内容が記されていました。

 

また事件が起きた1590年(天正18)は、豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の真っただ中。

政宗公の元には、秀吉公から参戦するよう書状が届いていましたが、秀吉公と相対する北条氏と伊達氏は同盟関係にあったため、政宗公は参戦するか決めあぐねていたのです。

 

結果、小田原合戦に遅参することになった政宗公は、遅れた理由を説明するためのアリバイ工作として、毒殺未遂事件を自作自演したのではないか?という説もあります。

23歳、小田原合戦で秀吉の傘下に入る

小田原城

出典:PIXTA(神奈川県小田原市「小田原城」)

関東の一大勢力である北条氏とは、政宗公の父・伊達輝宗の時代から同盟関係にありました。

しかし1590年(天正18)、豊臣秀吉による北条氏討伐を掲げた小田原合戦が起こり、政宗公の元に、秀吉からから小田原合戦に参戦するよう書状が届きます。

 

この時の政宗公には、選択肢が2つしかありませんでした。

北条氏に協力し、玉砕覚悟で上方の遠征軍と戦うか。

ひとまず秀吉公に臣従し、その傘下に入り突破口を探るか。

を選んだ政宗公は同年5月に出立し、6月にようやく小田原に到着します。しかしその頃、すでに北条氏の敗北は濃厚で、秀吉公の怒りを買うことになりました。

 

この時の有名なエピソードが、「死装束での挨拶」です。

 

立腹した秀吉公は、到着した政宗公に箱根の山中での蟄居(ちっきょ/一室に謹慎させること)を命じます。

その間、秀吉公の使者が訪れ、遅参の理由や、秀吉公が懇意にしていた葦名(あしな)氏侵略の理由を政宗公に詰問します。

しかし政宗公は巧みな弁解で追及をかわし、発言一つで首が飛びかねない状況下にも関わらず、「千利休から茶の湯の手ほどきを受けたい」と申し入れたそうです。

 

堂々たる態度で弁明した政宗公に感服した秀吉公は、謁見を許しました。『関屋政春覚書』によると、政宗公は「白衣の死装束」で謁見の場に現れたそうです。

秀吉公は持っていた杖で政宗公の首を叩きながら、「もう少しでそちの首は落ちていたぞ」と告げたといわれています。

25歳、再び死装束パフォーマンス

秀吉 奥州仕置きのイメージ

作成:編集部

小田原合戦に勝利し、ついに天下人となった豊臣秀吉は「奥州仕置」を実施します。

奥州仕置とは、小田原合戦で秀吉公の呼びかけに応じなかった奥州大名に対する処罰のこと。領地がすべてリセットされ、事実上大名として滅亡します。

 

政宗公率いる伊達軍は、小田原合戦に参陣しましたが……

・小田原合戦に遅参したこと

・惣無事令(そうぶじれい/秀吉が制定した大名同士の私闘禁止の法令)を破り、葦名領(福島県会津若松市)への侵攻したこと。

この2つを主な理由とし、伊達氏も奥州仕置の対象としたのです。

首の皮一枚繋がったものの、伊達領から会津(葦名氏の元領地)を没収、さらに減封(所領の一部を削除)という制裁を受けた政宗公なのでした。

 

そんな中、1591年(天正19)に葛西大崎一揆(さいおおさきいっき)が起こります。

奥州仕置で領地を失った葛西氏(宮城県三陸沿岸から岩手県南部を統治)と大崎氏(宮城県大崎5郡を統治)の旧家臣らが、秀吉公の臣下である新領主・木村吉清(きむら よしきよ)と清久(きよひさ)父子に対し、反乱を起こしたのです。

 

豊臣秀吉は、政宗公と蒲生氏郷(がもう うじさと)に一揆の鎮圧を命じます。戦いは熾烈で、重臣を失いながらも政宗公は一揆の鎮圧を成功させました。

領主だった木村親子は改易(領地没収)となり、代わりに葛西と大崎13郡は、政宗公に与えられることになったのです。

 

ところが、この葛西大崎一揆を政宗公が扇動したのではないか?という疑惑が浮上します。

というのも、政宗が一揆衆に宛てた激励文を蒲生氏郷が見つけてしまったのです。

 

蒲生氏はすぐさま報告し、激怒した秀吉公は政宗公に上洛を命じます。

 

小田原合戦に続く、二度目の絶体絶命のピンチ。政宗公は再び死装束に身を包み、さらに行列の先頭には金箔が塗られた磔柱(十字架)を掲げ、秀吉公の待つ京の町を行進しました。

この様子は、蒲生氏側の書物『氏郷記』に記されているようです。

 

秀吉公に証拠となった手紙を突き付けられた政宗公ですが、「あなた様への忠誠心に一点の曇りもございません。」と弁明します。

ですがその手紙には、鶺鴒(せきれい)を模した政宗公の花押(かおう/直筆のサイン)が記されており、疑う余地がない状況でした。

 

しかし政宗公は「もしその手紙が本物であれば、鶺鴒の目に針で刺した穴が開いているはずです。残念ながら、証拠の手紙にある花押の鶺鴒には、穴が開いていません」と釈明。

 

実際に穴が開いていたかはわかりませんが、秀吉公はその弁明を聞き入れ、政宗公を二度許してしまったのです。

とはいえ、前年の奥州仕置よりもさらに重い減封を課し、伊達氏の旧領は蒲生氏郷に与えられました。

 

このことからも、秀吉公は政宗公の一揆扇動を事実として認めている節があったかのように思えます。

25歳、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に出陣

肥前名護屋城

出典:PIXTA(佐賀県唐津市「名護屋城」)

葛西大崎一揆の翌年、豊臣秀吉は明(現在の中華人民共和国)の征服を目指し、朝鮮出兵を決断します。

 

政宗公にも声がかかり、秀吉公から割り当てられた人数の倍である3千の兵を連れ、肥前の名護屋城(佐賀県唐津市)へ向かうことになりました。

その際、大名たちは一旦京都に集合し、隊列を組んで出陣します。

 

京人の目を惹きつけたのは、二番隊の徳川家康の後に登場した三番隊の伊達軍。

 

紺地に金の日の丸を描いた幟(のぼり)に、黒と金が基調となった装束を身にまとい、馬にも豹や虎の皮、孔雀の尾をつかった鎧を着用させていました。

他の大名軍とは明らかに違う、派手で奇抜な装いは人々の目を大層驚かせたそうです。この出来事が「伊達者」という言葉の起源となった、ともいわれています。(諸説あり)

 

政宗公は海を渡り、1593年(文禄2年)朝鮮半島に上陸。すでに秀吉軍は苦戦しており、また風土病も流行ったせいで、伊達軍も重臣を失う痛手を負います。

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)と呼ばれるこの戦は、1592~1598年(文禄元年~慶長3年)の6年に渡り続きました。

33歳、関ケ原の戦い

白石城
写真提供:白石市・蔵王町(宮城県白石市の「白石城」)

1598年(慶長3)豊臣秀吉が亡くなると、実権をめぐり徳川家康と石田三成ら豊臣派の対立が激しくなります。

そして1600年(慶長5)、天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いが起こり、東軍率いる家康軍が勝利しました。

 

この時、政宗公は徳川側についていましたが、関ヶ原の戦いには参戦していません。

三成側についた上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の動きを抑えるために、白石城(宮城県白石市)を攻め取ろうと動いていました。(白石城の戦い)

 

白石城の奪還に成功した政宗公は、1602年(慶長7)に腹心の片倉景綱(小十郎)に白石城を託し、以降明治維新までの260年あまり片倉家が城主を務めます。

34歳、仙台城を築き「仙台藩藩祖」に就く

仙台城 石垣

出典:PIXTA(仙台城跡の石垣)

関ヶ原の戦いの翌年、1601年(慶長6)に政宗公は「仙台城(宮城県仙台市)」の建築はじめます。

翌年にはひとまず完成となり、政宗公は1603年(慶長8)に岩出山城(宮城県大崎市)から仙台城に居を移します。

同年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府が誕生。伊達氏の領地は「仙台藩」となり、政宗公は仙台藩初代藩主となります。

 

仙台藩は62万石あり、これは加賀藩(石川~富山)の100万石、薩摩藩の73万石(鹿児島)に次ぎ、全国で3番目の規模を誇りました。

伊達政宗の生涯(晩年期)

白い伊達政宗像

写真提供:宮城県観光プロモーション推進室(大崎市の「岩出山城跡」に建つ伊達政宗像)

江戸幕府が誕生し、以降200年以上続いた「太平の世」と呼ばれる江戸時代。ここからは晩年の政宗公の生涯を紹介します。

46歳、家臣をヨーロッパに派遣する

石巻 サンファン館

撮影:ライターstingray(宮城県石巻市「サン・ファン館 宮城県慶長使節船ミュージアム」)

1613年(慶長18)政宗公は、家臣・支倉常長(はせくらつねなが)を筆頭とする「慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)」を結成し、イスパニア(現在のスペイン)国王とローマ教皇のもとへ派遣します。

政宗公の狙いは、領内でキリスト教の布教を認める代わりに、貿易ルートを構築することでした。

 

しかし幕府より禁教令(キリスト教禁止令)が出され、結果交渉は失敗に終わります。

 

使節を派遣した理由は明らかにされていませんが、近年の研究では1611年(慶長16)に起きた慶長三陸地震の復旧と復興のため、外国と交流をすることで利益と活力を得る方法を模索していたのではないか、とも考えられています。詳細はこちらの記事をみてください。

47歳、最後の戦!大坂の陣

大坂城

出典:写真AC HIRO797さん(大阪城)

戦国の世が終わりを告げ、太平の世をもたらした徳川家康。

しかし、依然として豊臣家に味方とする反徳川派が残っており、家康にとっては新たな火種を引き起こす可能性のある厄介者でした。

 

そこで家康は口実をつくり、1614年(慶長19)から翌年にかけて大阪城に攻め入ります。これが大坂の陣と呼ばれる戦いで、1614年の冬の陣と1615年の夏の陣の2回に渡って行われました。

政宗公最後の出陣となり、戦は徳川軍の勝利で幕を下ろします。

 

大坂の陣で功績を挙げた政宗公は、家康公より論功行賞を授けられ、政宗公と側室・新造の方との間に生まれた長男・伊達秀宗(だて ひでむね)に伊予宇和島10万石が与えられます。(のちの宇和島藩)

 

また大坂の陣では、政宗公の腹心・片倉景綱の息子である片倉重長(かたくら しげなが)が、豊臣側についた真田幸村の次男と3女を引き取ったことでも知られています。

幕府側は豊臣の残党狩りを徹底的に行っており、一歩間違えれば家康の逆鱗に触れ、主君である政宗公が処罰を受ける恐れがある……。

 

そんな危険を冒しても、片倉重長は真田幸村との約束を守り2人を匿いました。

次男は片倉性を名乗り仙台藩藩士として、3女は片倉重長の継室(最初の正室との死別や離婚を受け、当主の正式な再婚により迎えられた後妻)となります。

仙台藩の基盤を作り上げる

仙台市 貞山運河

出典:PIXTA(宮城県仙台市・塩竈市の「貞山運河」)

天下統一の野望を秘め、隙あらば領土を拡大させようと、ときには自身の命を天秤にかけるような危険を冒し、天下人に挑み続けた政宗公。

しかし大阪の陣後、政宗公は従順な姿勢をみせ、江戸幕府の重鎮となっていきます。

 

また仙台藩の発展に力を注ぎ、運河を整備するなど治水事業や、新田開発を積極的に行います。

人口増加により深刻な米不足に陥った江戸に、仙台藩は豊富な米をバンバン出荷し、一時は江戸の米消費量3分の1を仙台藩米が賄っていた、とも伝えられています。

仙台 田んぼ

出典:PIXTA(仙台平野の水田)

また文化面の再生・再興にも注力し、上方(京阪方面)に引けを取らない“都”を創りあげようとしました。

 

旧跡や名所の再興する際には、上方の絵師や大工などを招き、豪華絢爛な桃山文化の手法を取り入れていきます。「大崎八幡宮(仙台市)」「瑞巌寺(松島町)」などが代表的な建築物で、国宝に指定されています。

70歳、江戸城下の藩邸で亡くなる

仙台藩外桜田上屋敷跡

出典:PIXTA(東京都日比谷公園内にある「伊達政宗終焉の地看板」)

晩年は仙台藩の経営に力を注いだ政宗公。

しかし1634年(寛永11)頃から体調を崩すようになります。

 

母・義姫の菩提寺の完成を祝った帰り、ホトトギスに誘われて入った山を政宗公は自身の墓所として定めました。それが現在仙台市にある「瑞鳳殿(ずいほうでん)」です。

 

1636年(寛永13)参勤交代で江戸に向かい、3代将軍・徳川家光と謁見。

その際、政宗公の衰弱ぶりに驚いた家光公は、翌日には数十名の医者を呼び、江戸中の寺社に快復平癒の祈祷をさせたといわれています。

しかし病状は回復せず、家光公自ら江戸城下の仙台藩藩邸に足を運び、政宗公を直接見舞い訪れました。

 

そして同年、参勤交代から1か月余りで政宗公はこの世を去ります。享年70歳。政宗公の死因は食道がん、もしくはがん性腹膜炎と考えられています。

 

江戸城下の藩邸屋敷で最期を迎えた政宗公。隠居することなく、最期まで生涯現役を貫き通しました。

臨終の際は見苦しい姿を見せまいと、面会を求める妻・愛姫を拒み続けたといわれています。

 

政宗公の死後、家光公は江戸で7日、京で3日、庶民にも喪に服すよう命じたそうです。

伊達政宗の性格がわかる!逸話エピソード3選

ずんだ

写真提供:宮城県観光プロモーション推進室

ここまで伊達政宗の生涯を紹介しましたが、最後に彼の性格がわかる逸話を3つ紹介します。

① 料理男子だった

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。」

上記の言葉は、晩年の政宗公の逸話を集めた『命期集』に記されている、政宗公の言葉です。

 

政宗公といえば、料理好きで知られています。宮城の名物で知られる「ずんだ」「仙台味噌」「伊達巻き」などは、政宗公が考案したという説があるほど。

 

また徳川家2代将軍・秀忠(ひでただ)公、家光公に、自ら手料理を振舞うほどで、『伊達氏治家記録』によると全国各地から旬のものや珍味を取り寄せ、およそ60種以上の食材を使い、豪華な懐石料理を振る舞ったとか。

② 筆まめ武将だった

政宗公といえば、その手紙の多さでも知られており、かなりの筆まめな気配り人間だったようです。

傍にいる右筆(ゆうひつ/選任の書き役)には頼らず、本文、日付、宛名、花押(サイン)までそのほとんどが自筆で、刀だけでなく筆を執ることも大切にしていたことがわかります。

 

仙台市博物館には、小田原合戦から解放された直後、政宗公が国もとに知らせた手紙が所蔵されています。

内容は、秀吉に呼び出されたことから、茶の湯のもてなしを受けたこと。刀をいただいたこと、領国の没収は会津のみで済んだこと。

そして追伸には、「花押の形が少し違ったが、手直しするのもどうかと思うので、取り急ぎこのまま送ります。」と記されていました。マメですね。

 

家臣だけでなく、愛姫や10男4女の子供たちに宛てた手紙を多く残しています。

内容は「こういうことを心がけなさい」「お酒を飲みすぎないように」「茶の湯や香道、和歌などにも親しむように」というアドバイスだったり、「江戸への出立まえにお前(娘)に会えないのは大変残念だ」と親子愛にあふれる内容が記されています。

③ 愛煙家だった

政宗公は愛煙家でもあり、朝起きるとまずは一服……ではなく、1回に煙草を二、三服ほど吸ったそうです。終わると、自ら雁首(がんくび/キセルの火皿がついた頭部)をきれいに磨き、煙管箱に納めていました。

 

政宗公は1日4回、規則正しく喫煙していたようです。政宗公の墓所である瑞鳳殿からは、立派な煙管箱と竹製の掃除具が発見されています。

伊達政宗に会いに、宮城へいこう!

武将として南奥州の覇権を握り、東北の大都市・仙台の基盤を築いた為政者でもある伊達政宗。

仙台市には、政宗公が築いた仙台城跡、墓所の瑞鳳殿、造営した大崎八幡宮など、政宗公に関連した名所が点在しています。

またぜひ松島へも足を運んでください。政宗公が再興させた「瑞巌寺」や、遺骨をもとに再現した政宗公の「顔」と「肉声」を聞ける「みちのく伊達政宗歴史館」などがあります。

 

政宗公所縁の名所めぐりに最適な宿を探そう!

仙台城のあった仙台市街地をはじめ、伊達家と縁のあった温泉地などに泊まって仙台の歴史に浸ってみるのもお勧めです。

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参考文献

『素顔の伊達政宗~「筆まめ」戦国大名の生き様』/ 佐藤憲一/歴史新書/2012年

『別冊歴史読本 戦国武将列伝』/ 新人物従来社/2006年

『戦国武将の手紙を読む』/二木謙一/角川選書/1991年

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伊達政宗騎馬像 仙台夜景
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GOGO MIYAGI!記事執筆担当。関東出身・在住ですが、宮城の魅力にハマり、夜行バスで通う日々。ペーパードライバーなので、旅は徒歩・バス・電車が中心。地元民じゃないからこそ発見できる、宮城の魅力をお伝えします。

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