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仙台城(青葉城)以外の仙台のお城を巡る
宮城県の城、仙台のお城と聞いて、真っ先に思い浮かぶのはやはり「仙台城(青葉城)」ですよね。
しかし仙台市にはあるのは、仙台城だけではありません。
この企画では仙台市とその周辺にある、お城跡にスポットライトを当てていきます。
今回は、留守氏の居城「岩切城」
今回ご紹介するお城は、仙台市宮城野区にある「岩切城(いわきりじょう)」。
現在の利府、多賀城一帯を治めていた留守氏(るすし)の居城であり、14世紀の南北朝時代には血みどろの戦場となりました。
岩切城跡はどこにあるの?
岩切城(いわきりじょう)があるのは、仙台駅から西へ13kmほど離れた宮城野区岩切に佇む高森山(たかもりやま)。
昭和57年(1982)に国の史跡に指定され、県民の森の一画を占める「高森山公園」として整備されています。
公共交通機関でアクセスできる
岩切城跡へは公共交通機関でのアクセスも可能です。
JR仙台駅からJR東北本線「小牛田行」に乗車し約8分、「岩切駅」で下車します。
岩切駅から仙台市営バス「交通局東北大学病院前行」に乗車し約4分、「今市橋」バス停で下車し徒歩約20分です。
中世の岩切は、東北地方最大の商業地域だった?
岩切城周辺(宮城野区岩切から塩釜にかけて)は、中世の多賀国府(たがこくふ)があった範囲として有力視されています。
多賀国府とは、陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)の国府(役所)が置かれた、政治・経済の中心地とされる場所です。
岩切周辺の地域には※奥大道と呼ばれる鎌倉からの幹線道路が敷かれていたほか、海へと通ずる主要な河川(現在の七北田川)が交差しており、岩切周辺は水陸交通の要所=商業地域として栄えていたのではないかと推測されています。
ちなみに歴史好きの方ならご存じであろう、現在の宮城県多賀城市にある「※多賀城(たがじょう)」跡。
奈良~平安時代の10世紀ころまで機能していたとされる、古代陸奥国の国府です。
史料上、多賀城の名前は9世紀以降には登場せず、また発掘調査にいても10世紀以降の国府の状況は明らかにされていません。
古代の陸奥国国府(多賀城)がどのように続いていったのか、中世の多賀国府との関連性などは、未だ謎に包まれています。
岩切城のある地域の紹介は以上です。続いては岩切城の城主とされる、留守氏についてひも解いていきます。
岩切城の城主「留守」という名字の謎
祖は鎌倉幕府の御家人・伊沢家景
そもそも「留守」という名字は、あまり馴染みがない呼称ですよね。まず留守氏のルーツをみていきましょう。
留守氏の祖とされているのは、平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した、伊沢家景(いさわ いえかげ)。
もともと公家の藤原氏に仕えていましたが、鎌倉幕府の初代※執事・北条時政(ほうじょうときまさ)に文筆能力を買われ、御家人(鎌倉幕府の従者)となり初代※征夷大将軍・源頼朝に仕えました。
※征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)……もとは平安時代に行われた蝦夷(東北)征伐の最高司令官。鎌倉幕府を開いた源頼朝以降は、武士の棟梁という意味合いが強くなる。
征夷大将軍には戦争で獲得した地域に、臨時の軍政を行う権利があった。その時つくられた、臨時組織こそが「幕府」。朝廷に変わり、武士が臨時に政治を行うという意味で、征夷大将軍は幕府のトップという意味合いもある。
奥州を管理していた地方長官
文治5年(1189)、※奥州合戦に勝利した源頼朝により、日本史上はじめて東北のほぼ全域が一つの支配下に組み込まれました。
奥州合戦直後、源頼朝は葛西清重(かさいしげよし)に戦後の後処理を命じ、翌年の文知6年(1190)に伊沢家景を陸奥国※留守職に任命します。
家景は陸奥国内の行政を担当。頼朝は国内に所領を得た地頭に対して、家景の指示に従うよう命じました。
以降、葛西氏と家景の両名が※奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)と呼ばれます。
※奥州合戦(1189)……鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝と、陸奥平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った奥州藤原氏の戦い。源頼朝が勝利する。
※留守職(るすしき)……平安末期から陸奥国の多賀国府にあって民政をつかさどった職で勧農や民庶の愁訴の取り次ぎ、国務に従わない者の取締りなどを行う。
※奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)……奥州合戦の戦後処理のために任じた臨時職。守護(幕府が国単位で設置した軍事指揮官・行政官)の置かれなかった陸奥国で、その代替を担ったと考えられている。葛西氏が軍事、家景が行政を担当。
しかし鎌倉時代中期になると、陸奥国内の大半が北条氏の所領となり、惣奉行職・留守職は形骸化。
奥州の一地頭となった留守氏ですが、家景の子孫たちは東北に定住し、職名を名字とし「留守」と名乗るようになります。
岩切城はいつ築城された?
岩切城の築城年代は、明らかにされていません。
一説として鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に築かれたのではないか、と考えられています。
岩切城が史料に登場するのは、留守余目一族(留守氏の庶流…宗家ないし本家より別れた一族のこと)の記録である『奥州余目記録(余目氏旧記)』。
室町時代の初期にあたる正平6年(1351)に起こった、”岩切城の戦い”に関する記述の中にその存在が記されていました。
続いては史料に初めて岩切城が登場し、戦の舞台ともなった”岩切城の戦い”についてご紹介します。
岩切城の歴史~岩切合戦~
岩切城の戦いについて説明する前に、前後の時代背景や奥州の情勢をみておきましょう。
時代は鎌倉幕府滅亡後~南北朝時代(室町時代)にかけて。中央(京)の争いが遠く離れた奥州へと飛火し、岩切城の戦いへとつながっていきます。
後醍醐天皇 VS 足利尊氏
■後醍醐天皇と足利尊氏の深まるみぞ
元弘3年(1333)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇自らが政治を行う”建武の新政”に取りかかります。
倒幕の際、一番功績を挙げた足利尊氏(あしかがたかうじ)は※鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され、奥州にあった北条氏旧領の※地頭職(じとうしょく)などが後醍醐天皇より与えられました。
しかし尊氏が望んだのは、朝廷から独立した行政権をもつ征夷大将軍の位。
ですが後醍醐天皇は尊氏ではなく、我が子の護良親王(もりよししんのう)に征夷大将軍の位を与えます(のちに解任)。
※地頭職……幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。
さらに後醍醐天皇は、奥州を支配するための地方統治機関「陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)」を、多賀城(たがじょう)に設置します。
陸奥将軍府設置の背景は諸説ありますが、奥州には旧北条氏や、足利氏の有力一門・斯波氏(しばし)の支配地も多かったため、奥州の武士たちを朝廷に取り込むのが狙いだったのではないかと考えられています。
■朝廷に現れた天才、北畠顕家が奥州をまとめる
陸奥将軍府にて奥州の統治を任じられたのは、公卿出身の貴族武将・北畠顕家(きたばたけ あきいえ)。
顕家は史上最年少で参議(朝廷の最高機関である太政官の官職の一つ)に任じられるなど、異例の出世を果たした才覚の持ち主です。
また史料などから美少年とする伝承があり、NHK大河ドラマ『太平記』では国民的美少女と言われた女優の後藤久美子さんが顕家役を演じ、話題になりました。
当時16歳だった顕家は、後醍醐天皇の子である義良親王(のりよし しんのう)を奉じ、陸奥国へ下ります(陸奥国将軍府)。
顕家は南部師行(なんぶもろゆき)や結城宗広(ゆうきむねひろ)、伊達行朝(だて ゆきとも/伊達政宗の先祖)をはじめとする奥州の有力地頭たちをまとめ上げ、後醍醐天皇の期待通りの働きぶりをみせました。
この3名は顕家の腹心として、ともに戦場を駆け抜けることになります。
北畠顕家と足利派の衝突
■南北朝時代の幕開け
天皇や公家(貴族)を優先した”建武の新政”は、倒幕に貢献した武士たちの不満を解消できず、足利尊氏もついに反旗を翻します(建武の新政の崩壊)。
後醍醐天皇の陸奥国将軍府に対抗するため、尊氏は建武2年(1333)に奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長(しば いえなが)を「奥州総大将」に任命。
陸奥国と出羽国における、軍事指揮権を与えます。
一方後醍醐天皇は、北畠顕家を※鎮守府将軍に任命(反逆した尊氏は鎮守府将軍を解任された)。顕家は尊氏を討つために西へ向かい、ついに両者は激突します。
結果、勝利したのは顕家。敗北した尊氏は九州へと落ち延びます。
尊氏を退けたものの、東国における反後醍醐天皇派が活発的な動きをみせていたため、顕家は早々に奥州へと引き返します。
帰途の道中、斯波家長から妨害を受けるもこれを破り、無事多賀城への帰還を果たしました。
しかしその頃、再起を図る尊氏が九州から攻めのぼってきており、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)率いる後醍醐軍を撃破します(湊川の戦い/1336年)。
尊氏が入京すると、後醍醐天皇は比叡山延暦寺へ逃亡。抵抗はしたものの、最終的に尊氏の和睦に応じます。
そして正当な皇室の証である”三種の神器”を足利側へ渡し、京の屋敷に幽閉されました。
尊氏は後醍醐天皇に代わる新天皇として、持明院統(じみょういんとう)の光明天皇を擁立(北朝)。延元3年(北朝/1338年)、念願の征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開きます。
しかしまだあきらめていなかった後醍醐天皇は、京から脱出し吉野(奈良)へ逃亡。
渡した三種の神器は偽物で、皇位は自身(南朝)にあると宣言します。こうして朝廷が二分する、南北朝時代の幕が上がりました。
■顕家の死
朝廷が二分する前、奥州でも変化が起きていました。後醍醐天皇の劣勢を知った足利派の武士たちが攻勢に転じ、後醍醐天皇側(南朝)の顕家は追い込まれていきます。
そしてついに多賀城を放棄、拠点を霊山へと移します(現在の福島県相馬市・伊達市)。
後醍醐天皇は全国の味方に、尊氏の討伐指令を発令。これを受けて顕家は義良親王を奉じ、結城宗広・伊達行朝・南部師行ら腹心の武将を引き連れ、霊山から京へと出立します。
その後は南朝の武将として、いくつもの戦場を駆け抜けてきた顕家。劣勢だった南朝の勢いを取り戻し、善戦を重ねました。
しかし顕家は室町幕府の※執事・高師直(こうの もろなお)により討ち取られてしまいます。享年21歳という若さでした。
そして同年1338年、征夷大将軍に任命された尊氏は室町幕府(北朝)を開きます。
翌年の延元4年(北朝/1339)に後醍醐天皇は亡くなり、義良親王が後村上天皇(ごむらかみてんのう)として南朝の天皇に即位しました。
観応の擾乱(室町幕府)
■尊氏の弟・直義 VS 尊氏の腹心・高師直~第1ラウンド~
奥州では顕家の死後、弟の北畠顕信(きたばたけ あきのぶ)が南朝より新たな鎮守府将軍に任じられます。
しかし足利派の攻勢に苦戦し、奥州でも北朝が優位に立ちます。
一方、京の室町幕府(北朝)内部では、戦乱によって生じた領地や権益を巡る問題で、執事・高師直(こうの もろなお)の派閥と、尊氏の弟・足利直義(あしかが ただよし)の派閥が対立していました。
肝心の将軍・尊氏はというと、幕府を開いてから政治への関心を失っており、運営は高師直と直義に任せきりにしていたのです。
■のちに岩切城の戦いを引き起こす、2人の奥州管領が赴任
その頃の奥州では、尊氏が設置した奥州総大将の職権が廃止され、幕府によって「奥州管領(おうしゅうかんれい)」が置かれます。
奥州管領は軍事指揮権と、税の管理や裁判などの行政を行う権力をもっており、軍事指揮権しかなかった奥州総大将の職権が拡大したようなものです。
幕府により奥州管領を任命されたのは2人の武将、畠山国氏(はたけやま くにうじ)と吉良貞家(きら さだいえ)です。貞和6年(北朝/1345)のことでした。
奥州はふたりの共同統治でしたが、吉良氏は斯波氏と肩を並べる足利一門であり、主導権はほぼ吉良氏が握っていたようです。
しかし吉良氏の留守を狙い、畠山氏は岩切城の城主であった留守家任(るす いえとう)を取り込み、多賀城を掌握します。
そして中央で観応の擾乱が起こると、畠山氏は尊氏・高師直派、吉良氏は直義派につき武力衝突へと発展。のちに岩切城の戦いを引き起こします。
■尊氏が仲介に入り、一時休戦…?
と、ここで一旦話を室町幕府内部に戻しましょう。
直義と高師直のにらみ合いが続く中、正平3年(1348)楠木正成の嫡男・楠木 正行(くすのき まさつら)率いる南朝軍と高師直率いる北朝軍が激突(四條畷の戦い/しじょうなわてのたたかい)。
楠木正行は南朝のエース的な存在であり、戦いに勝利した高師直の名声が一気に高まります。
勢いに乗った高師直は、幕府内から直義派を消そうとします。これが観応の擾乱(かんのうのじょうらん)のはじまりです。
これに怒った直義は、高師直を闇討ちしようと画策しますが、失敗。高師直はすぐさま反撃し、直義は絶対絶命の窮地へ追い込まれます。
見かねた尊氏はふたりの仲介に入り、休戦へ持ち込むことに成功。
事実上敗者となった直義は出家を決意、政界から身を引き隠居します。
直義の後を引き継いだのは、尊氏の息子・足利義詮(あしかが よしあきら)。のちの室町幕府2代目将軍です。
観応の擾乱、これにてめでたしめでたし……と思いきや?
■南朝の直義 VS北朝の 尊氏・高師直~第2ラウンド~
驚くべきことに隠居していたはずの直義が、なんと南朝へ寝返ります。
しかし南朝にとって足利一族は、後醍醐天皇を追いやった仇敵以外の何者でもありません。
とはいえ旗色の悪い南朝の情勢を考え、直義と手を結ぶことにします。こうして直義と高師直の戦いは、南朝 VS 北朝へ事が大きくなっていくのです。
東北版の観応の擾乱「岩切城の戦い」
直義と南朝が和解したニュースは、奥州にも伝わりました。
このとき直義派の吉良氏は、南朝派の北畠顕信の拠点(雫石城/岩手県)を包囲していましたが、南朝と和睦したことを告げて包囲を解きます。
また南朝派である伊達氏や葛西氏に一時休戦を願い出るだけでなく、奥州の地頭たちを直義派(南朝)に勧誘し、留守氏のライバルである国分氏を味方につけることにも成功します。
国分氏についてはこちらの記事をチェック!
こうして畠山氏を支持するのは留守氏のみとなり、奥州では直義派(南朝)が優勢になります。
畠山氏は多賀城を保守できなくなり、留守氏の居城である「岩切城」へ籠城。吉良氏の軍勢は岩切城に攻め入り、戦いの火ぶたが切られたのです。
「直義派(南朝)」の吉良氏・国分氏 VS 「尊氏・高師直派(北朝)」の畠山氏・留守氏
→結果は、吉良氏(直義派・南朝)の勝利!
天平6年(南朝/1351)、吉良氏の軍勢に攻められた岩切城。畠山氏と留守氏らは抗戦するものの、激戦を経て落城。
敗者となった畠山国氏父子は切腹、そのほか100余名の武士らが命を落としました。
また畠山氏についた留守家次も戦死し、留守氏の庶流(宗家ないし本家より別れた一族のこと)である余目氏、宮城氏などの一族はほぼ全滅という悲運な結末となります。
■岩切城合戦は京都にも報告される
岩切城合戦の報告は、直ちに飛脚によって3月14日に京都へ届けられます。
南北朝時代の戦いで、城郭で100人以上もの死者を出した事例がなく、岩切城合戦は戦略上も政治上でも重大な意味を有する出来事として記録されたのです。
また吉良派に参戦した白河の結城氏、和賀郡の和賀氏が残した文書。
留守氏一族が残した「奥州余目記録」で岩切城合戦の様子がわかります。
観応の擾乱の結末
岩切城の戦いは、直義派(南朝)の勝利で幕を閉じましたが、観応の擾乱は最終的に尊氏の勝利で終結します。
尊氏の腹心・高師直は、直義派に討たれて死亡。直義は幽閉され、急死します。
合戦後、岩切城はどうなったの?
全滅は逃れたものの、所領もライバル国分氏のものとなり勢力が衰えた留守氏。
しかしその後、伊達氏と親族関係を結び、養子として※留守政景(るす まさかげ/伊達政景)を迎え入れるなどして、勢力を回復していきます。
戦国時代末期に入ると、伊達政宗(だてまさむね)が東北地方南部を征服。
政宗は叔父である政景を岩切城主とします。
元亀年間(1570年~1573年)に政景は居城を利府城に移し、残念ながら岩切城は廃城となりました。
現在の岩切城を散策してみよう
こちらが岩切城の入口。5台ほど駐車可能です。
高森山は熊が出没するので、ご注意ください。
入口から真っすぐ進んで行きましょう。
けっこうキツイ勾配です。100mも進まないうちに早くも息切れです。
そのまま登っていくと、ありがたいことにベンチがありました。何事も無理は禁物。ちょっと休憩しましょう。
気を取り戻して、さらに登って行きます。
本丸がある頂上の手前からみえる仙台駅方面の景色。遠くにSS30や大年寺山にそびえ立つ3本の電波塔がみえます。となりの八木山にあるもう1つの電波塔もしっかりみえました。
主郭に続く道です。さらに上に向かっていきます。山を削平してつくった、何段かの曲輪があります。
さらに登るとこんな建物がみえてきます。何かと思ったらトイレでした。
トイレから主郭があったとされる左方向に行くと東屋がみえます。
東屋から先は主郭(本丸)跡が広がっています。跡地は奥深くまで細長く続いていました。とくに案内板などはありません。
さらに奥へ進むと主郭の中心部にあたる、106mの頂上を示す小さな案内板があります。
頂上から東側をみた風景。七ヶ浜方面、仙台港、火力発電所、太平洋に浮かぶ船までもみえました。
頂上からみる南側の風景。仙台駅周辺のビル群がみえます。
頂上からみる西側の風景。仙台大観音をここから拝めます。
頂上からみる北側の風景。大部分が山林になっているのがよくわかりますね。
主郭の反対方向にあるトイレ側に真っすぐ進むと、こちらにも曲輪が広がっていました。
そのまま進むと左側には大きな桜の木があります。岩切城は穴場の花見スポット。
ここも曲輪は長く続いています。両脇には大きな桜の木がたくさんありました。桜の季節は最高でしょうね!
こんな謎の道が何か所かありますが怖くて前に進めません。奥にも曲輪が広がってるかもしれませんね。
登ってきた道を主郭から下りて戻ります。
入口から伸びている西曲輪群と呼ばれる、曲輪の一画を発見。
史料によると、この曲輪は戦前に小学校の運動場として使用されており、その時に削平された可能性があるとか。
岩切城の規模は?
岩切城は、標高106mの高森山の丘陵上に位置し、主郭(本丸)からは仙台平野を一望できます。
広大な城跡の範囲のほとんどは宮城野区岩切地区ですが、敷地の一部は利府町神谷坂地区にまで及んでいました。
面積は、397,500平方メートルで東京ドームに換算すると8.5個分。中核部分は公園として整備されていますが、大部分は山林となっています。
仙台藩が幕府に提出した『仙台領古城書上』によると、高森城として東西16※間、南北5間とされ、東西50間、南北116間の二ノ丸があるとしています。
しかしながら、本丸の南北を50間とする写本もあり、こちらの方が遺構と合致しているようです。
二ノ丸の規模も南北を50間、110間、160間と写本による違いがあり、この二ノ丸がどの遺構を指しているのかは、まだ明らかにされていません。
岩切城からみる景色は格別
670年ほど前の南北朝時代、凄惨な合戦場となった岩切城。標高106mから望む景色は、当時の人が想像できないぐらい様変わりしていることでしょう。
しかしここに岩切城跡があった、戦があった事実は変わりません。ぜひあなたも、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
【岩切城跡の基本情報】
所在地:
〒983-0821 仙台市宮城野区岩切字入山
〒981-0121 宮城郡利府町神谷沢
アクセス:
<電車・バス>
仙台駅からJR東北本線「小牛田行」に乗車約8分「岩切駅」で下車。岩切駅から仙台市営バス「交通局東北大学病院前行」に乗車約4分「今市橋」バス停で下車し徒歩約20分
<車>
仙台駅から国道45号線、国道4号線、県道8号線経由で約25分
駐車場:
無料/5台(登山口入り口前)
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藩祖・伊達政宗公の湯浴み御殿がおかれた「秋保温泉」、荒城の月で有名な詩人・土井晩翠(どい ばんすい)などの文化人が愛した「作並温泉」など、いずれも長い歴史をもつ温泉地です。ぜひチェックしてみてくださいね!
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