岩切城の城主「留守」という名字の謎

留守氏 説明

祖は鎌倉幕府の御家人・伊沢家景

源頼朝

出典:いらすとや(作成編集部)

そもそも「留守」という名字は、あまり馴染みがない呼称ですよね。まず留守氏のルーツをみていきましょう。

 

留守氏の祖とされているのは、平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した、伊沢家景(いさわ いえかげ)。

もともと公家の藤原氏に仕えていましたが、鎌倉幕府の初代※執事・北条時政(ほうじょうときまさ)に文筆能力を買われ、御家人(鎌倉幕府の従者)となり初代※征夷大将軍・源頼朝に仕えました。

※執事(しつじ)……将軍の右腕といえるほど、幕政を統括する権力を持った役職。

※征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)……もとは平安時代に行われた蝦夷(東北)征伐の最高司令官。鎌倉幕府を開いた源頼朝以降は、武士の棟梁という意味合いが強くなる。

征夷大将軍には戦争で獲得した地域に、臨時の軍政を行う権利があった。その時つくられた、臨時組織こそが「幕府」。朝廷に変わり、武士が臨時に政治を行うという意味で、征夷大将軍は幕府のトップという意味合いもある。

奥州を管理していた地方長官

奥州 地図

出典:いらすとや(作成編集部)

文治5年(1189)、※奥州合戦に勝利した源頼朝により、日本史上はじめて東北のほぼ全域が一つの支配下に組み込まれました。

 

奥州合戦直後、源頼朝は葛西清重(かさいしげよし)に戦後の後処理を命じ、翌年の文知6年(1190)に伊沢家景を陸奥国※留守職に任命します。

 

家景は陸奥国内の行政を担当。頼朝は国内に所領を得た地頭に対して、家景の指示に従うよう命じました。

以降、葛西氏と家景の両名が※奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)と呼ばれます。

※奥州合戦(1189)……鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝と、陸奥平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った奥州藤原氏の戦い。源頼朝が勝利する。

 

※留守職(るすしき)……平安末期から陸奥国の多賀国府にあって民政をつかさどった職で勧農や民庶の愁訴の取り次ぎ、国務に従わない者の取締りなどを行う。

 

※奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)……奥州合戦の戦後処理のために任じた臨時職。守護(幕府が国単位で設置した軍事指揮官・行政官)の置かれなかった陸奥国で、その代替を担ったと考えられている。葛西氏が軍事、家景が行政を担当。

しかし鎌倉時代中期になると、陸奥国内の大半が北条氏の所領となり、惣奉行職・留守職は形骸化。

奥州の一地頭となった留守氏ですが、家景の子孫たちは東北に定住し、職名を名字とし「留守」と名乗るようになります。

岩切城はいつ築城された?

岩切城の標識

岩切城の築城年代は、明らかにされていません。

一説として鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に築かれたのではないか、と考えられています。

 

岩切城が史料に登場するのは、留守余目一族(留守氏の庶流…宗家ないし本家より別れた一族のこと)の記録である『奥州余目記録(余目氏旧記)』。

室町時代の初期にあたる正平6年(1351)に起こった、”岩切城の戦い”に関する記述の中にその存在が記されていました。

 

続いては史料に初めて岩切城が登場し、戦の舞台ともなった”岩切城の戦い”についてご紹介します。

岩切城の歴史~岩切合戦~

岩切城

▲岩切城から望む市街地

岩切城の戦いについて説明する前に、前後の時代背景や奥州の情勢をみておきましょう。

 

時代は鎌倉幕府滅亡後~南北朝時代(室町時代)にかけて。中央(京)の争いが遠く離れた奥州へと飛火し、岩切城の戦いへとつながっていきます。

後醍醐天皇 VS 足利尊氏

■後醍醐天皇と足利尊氏の深まるみぞ

元弘3年(1333)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇自らが政治を行う”建武の新政”に取りかかります。

 

倒幕の際、一番功績を挙げた足利尊氏(あしかがたかうじ)は※鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され、奥州にあった北条氏旧領の※地頭職(じとうしょく)などが後醍醐天皇より与えられました。

 

しかし尊氏が望んだのは、朝廷から独立した行政権をもつ征夷大将軍の位。

ですが後醍醐天皇は尊氏ではなく、我が子の護良親王(もりよししんのう)に征夷大将軍の位を与えます(のちに解任)。

※鎮守府将軍……建武政権における、最高軍事責任者。
※地頭職……幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。

さらに後醍醐天皇は、奥州を支配するための地方統治機関「陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)」を、多賀城(たがじょう)に設置します。

陸奥将軍府設置の背景は諸説ありますが、奥州には旧北条氏や、足利氏の有力一門・斯波氏(しばし)の支配地も多かったため、奥州の武士たちを朝廷に取り込むのが狙いだったのではないかと考えられています。

 

■朝廷に現れた天才、北畠顕家が奥州をまとめる

陸奥将軍府にて奥州の統治を任じられたのは、公卿出身の貴族武将・北畠顕家(きたばたけ あきいえ)

 

顕家は史上最年少で参議(朝廷の最高機関である太政官の官職の一つ)に任じられるなど、異例の出世を果たした才覚の持ち主です。

また史料などから美少年とする伝承があり、NHK大河ドラマ『太平記』では国民的美少女と言われた女優の後藤久美子さんが顕家役を演じ、話題になりました。

 

当時16歳だった顕家は、後醍醐天皇の子である義良親王(のりよし しんのう)を奉じ、陸奥国へ下ります(陸奥国将軍府)。

顕家は南部師行(なんぶもろゆき)や結城宗広(ゆうきむねひろ)、伊達行朝(だて ゆきとも/伊達政宗の先祖)をはじめとする奥州の有力地頭たちをまとめ上げ、後醍醐天皇の期待通りの働きぶりをみせました。

この3名は顕家の腹心として、ともに戦場を駆け抜けることになります。

北畠顕家と足利派の衝突

■南北朝時代の幕開け

天皇や公家(貴族)を優先した”建武の新政”は、倒幕に貢献した武士たちの不満を解消できず、足利尊氏もついに反旗を翻します(建武の新政の崩壊)。

 

後醍醐天皇の陸奥国将軍府に対抗するため、尊氏は建武2年(1333)に奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長(しば いえなが)を「奥州総大将」に任命。

陸奥国と出羽国における、軍事指揮権を与えます。

 

一方後醍醐天皇は、北畠顕家を※鎮守府将軍に任命(反逆した尊氏は鎮守府将軍を解任された)。顕家は尊氏を討つために西へ向かい、ついに両者は激突します。

結果、勝利したのは顕家。敗北した尊氏は九州へと落ち延びます。

※鎮守府将軍……征夷大将軍と同格とされた武門の最高栄誉職。建武の新政下で一時的に復活した。

尊氏を退けたものの、東国における反後醍醐天皇派が活発的な動きをみせていたため、顕家は早々に奥州へと引き返します。

帰途の道中、斯波家長から妨害を受けるもこれを破り、無事多賀城への帰還を果たしました。

 

しかしその頃、再起を図る尊氏が九州から攻めのぼってきており、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)率いる後醍醐軍を撃破します(湊川の戦い/1336年)。

 

尊氏が入京すると、後醍醐天皇は比叡山延暦寺へ逃亡。抵抗はしたものの、最終的に尊氏の和睦に応じます。

そして正当な皇室の証である”三種の神器”を足利側へ渡し、京の屋敷に幽閉されました。

尊氏は後醍醐天皇に代わる新天皇として、持明院統(じみょういんとう)の光明天皇を擁立(北朝)。延元3年(北朝/1338年)、念願の征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開きます。

 

しかしまだあきらめていなかった後醍醐天皇は、京から脱出し吉野(奈良)へ逃亡。

渡した三種の神器は偽物で、皇位は自身(南朝)にあると宣言します。こうして朝廷が二分する、南北朝時代の幕が上がりました。

 

■顕家の死

朝廷が二分する前、奥州でも変化が起きていました。後醍醐天皇の劣勢を知った足利派の武士たちが攻勢に転じ、後醍醐天皇側(南朝)の顕家は追い込まれていきます。

そしてついに多賀城を放棄、拠点を霊山へと移します(現在の福島県相馬市・伊達市)。

 

後醍醐天皇は全国の味方に、尊氏の討伐指令を発令。これを受けて顕家は義良親王を奉じ、結城宗広・伊達行朝・南部師行ら腹心の武将を引き連れ、霊山から京へと出立します。

 

その後は南朝の武将として、いくつもの戦場を駆け抜けてきた顕家。劣勢だった南朝の勢いを取り戻し、善戦を重ねました。

しかし顕家は室町幕府の※執事・高師直(こうの もろなお)により討ち取られてしまいます。享年21歳という若さでした。

 

そして同年1338年、征夷大将軍に任命された尊氏は室町幕府(北朝)を開きます。

翌年の延元4年(北朝/1339)に後醍醐天皇は亡くなり、義良親王が後村上天皇(ごむらかみてんのう)として南朝の天皇に即位しました。

観応の擾乱(室町幕府)

■尊氏の弟・直義 VS 尊氏の腹心・高師直~第1ラウンド~

奥州では顕家の死後、弟の北畠顕信(きたばたけ あきのぶ)が南朝より新たな鎮守府将軍に任じられます。

しかし足利派の攻勢に苦戦し、奥州でも北朝が優位に立ちます。

 

一方、京の室町幕府(北朝)内部では、戦乱によって生じた領地や権益を巡る問題で、執事・高師直(こうの もろなお)の派閥と、尊氏の弟・足利直義(あしかが ただよし)の派閥が対立していました。

肝心の将軍・尊氏はというと、幕府を開いてから政治への関心を失っており、運営は高師直と直義に任せきりにしていたのです。

 

■のちに岩切城の戦いを引き起こす、2人の奥州管領が赴任

その頃の奥州では、尊氏が設置した奥州総大将の職権が廃止され、幕府によって「奥州管領(おうしゅうかんれい)」が置かれます。

奥州管領は軍事指揮権と、税の管理や裁判などの行政を行う権力をもっており、軍事指揮権しかなかった奥州総大将の職権が拡大したようなものです。

 

幕府により奥州管領を任命されたのは2人の武将、畠山国氏(はたけやま くにうじ)と吉良貞家(きら さだいえ)です。貞和6年(北朝/1345)のことでした。

奥州はふたりの共同統治でしたが、吉良氏は斯波氏と肩を並べる足利一門であり、主導権はほぼ吉良氏が握っていたようです。

 

しかし吉良氏の留守を狙い、畠山氏は岩切城の城主であった留守家任(るす いえとう)を取り込み、多賀城を掌握します。

そして中央で観応の擾乱が起こると、畠山氏は尊氏・高師直派、吉良氏は直義派につき武力衝突へと発展。のちに岩切城の戦いを引き起こします。

 

■尊氏が仲介に入り、一時休戦…?

と、ここで一旦話を室町幕府内部に戻しましょう。

 

直義と高師直のにらみ合いが続く中、正平3年(1348)楠木正成の嫡男・楠木 正行(くすのき まさつら)率いる南朝軍と高師直率いる北朝軍が激突(四條畷の戦い/しじょうなわてのたたかい)。

楠木正行は南朝のエース的な存在であり、戦いに勝利した高師直の名声が一気に高まります。

 

勢いに乗った高師直は、幕府内から直義派を消そうとします。これが観応の擾乱(かんのうのじょうらん)のはじまりです。

 

これに怒った直義は、高師直を闇討ちしようと画策しますが、失敗。高師直はすぐさま反撃し、直義は絶対絶命の窮地へ追い込まれます。

見かねた尊氏はふたりの仲介に入り、休戦へ持ち込むことに成功。

 

事実上敗者となった直義は出家を決意、政界から身を引き隠居します。

 

直義の後を引き継いだのは、尊氏の息子・足利義詮(あしかが よしあきら)。のちの室町幕府2代目将軍です。

観応の擾乱、これにてめでたしめでたし……と思いきや?

 

■南朝の直義 VS北朝の 尊氏・高師直~第2ラウンド~

驚くべきことに隠居していたはずの直義が、なんと南朝へ寝返ります。

しかし南朝にとって足利一族は、後醍醐天皇を追いやった仇敵以外の何者でもありません。

 

とはいえ旗色の悪い南朝の情勢を考え、直義と手を結ぶことにします。こうして直義と高師直の戦いは、南朝 VS 北朝へ事が大きくなっていくのです。

東北版の観応の擾乱「岩切城の戦い」

岩切城からの眺望

▲岩切城本丸から望む景色

直義と南朝が和解したニュースは、奥州にも伝わりました。

このとき直義派の吉良氏は、南朝派の北畠顕信の拠点(雫石城/岩手県)を包囲していましたが、南朝と和睦したことを告げて包囲を解きます。

 

また南朝派である伊達氏や葛西氏に一時休戦を願い出るだけでなく、奥州の地頭たちを直義派(南朝)に勧誘し、留守氏のライバルである国分氏を味方につけることにも成功します。

 

国分氏についてはこちらの記事をチェック!

 

こうして畠山氏を支持するのは留守氏のみとなり、奥州では直義派(南朝)が優勢になります。

畠山氏は多賀城を保守できなくなり、留守氏の居城である「岩切城」へ籠城。吉良氏の軍勢は岩切城に攻め入り、戦いの火ぶたが切られたのです。

岩城城 

▲吉良氏についた野田盛綱による「軍忠状(ぐんちゅうじょう)」。軍忠状とは、武士が自己の軍功を大将に上申し承認を受け、武功の証拠とした文書のこと。
<岩切城の戦い>
「直義派(南朝)」の吉良氏・国分氏 VS 「尊氏・高師直派(北朝)」の畠山氏・留守氏
結果は、吉良氏(直義派・南朝)の勝利!

天平6年(南朝/1351)、吉良氏の軍勢に攻められた岩切城。畠山氏と留守氏らは抗戦するものの、激戦を経て落城。

敗者となった畠山国氏父子は切腹、そのほか100余名の武士らが命を落としました。

 

また畠山氏についた留守家次も戦死し、留守氏の庶流(宗家ないし本家より別れた一族のこと)である余目氏、宮城氏などの一族はほぼ全滅という悲運な結末となります。

 

■岩切城合戦は京都にも報告される

岩切城合戦の報告は、直ちに飛脚によって3月14日に京都へ届けられます。

南北朝時代の戦いで、城郭で100人以上もの死者を出した事例がなく、岩切城合戦は戦略上も政治上でも重大な意味を有する出来事として記録されたのです。

 

また吉良派に参戦した白河の結城氏、和賀郡の和賀氏が残した文書。

留守氏一族が残した「奥州余目記録」で岩切城合戦の様子がわかります。

観応の擾乱の結末

岩切城の戦いは、直義派(南朝)の勝利で幕を閉じましたが、観応の擾乱は最終的に尊氏の勝利で終結します。

尊氏の腹心・高師直は、直義派に討たれて死亡。直義は幽閉され、急死します。

合戦後、岩切城はどうなったの?

岩城城 案内板

全滅は逃れたものの、所領もライバル国分氏のものとなり勢力が衰えた留守氏。

しかしその後、伊達氏と親族関係を結び、養子として※留守政景(るす まさかげ/伊達政景)を迎え入れるなどして、勢力を回復していきます。

留守政景……伊達晴宗の3男。留守氏の養子に入り、留守氏18代当主となる。のちの伊達政宗の叔父にあたる人物。

 

戦国時代末期に入ると、伊達政宗(だてまさむね)が東北地方南部を征服。

政宗は叔父である政景を岩切城主とします。

 

元亀年間(1570年~1573年)に政景は居城を利府城に移し、残念ながら岩切城は廃城となりました。

現在の岩切城を散策してみよう

岩切城 入り口

こちらが岩切城の入口。5台ほど駐車可能です。

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