【利府城(館山公園)】伊達政宗の叔父が住んでいた!仙台のお城跡めぐり④

2021/04/09 更新

日本三景で有名な松島の手前に広がる、利府町。今から450年ほど前は留守氏という一族が支配しており、利府城は留守氏の家臣・村岡氏の居城でした。しかし最終的に「利府城」は、主君留守氏のものになります。一体何が起こったのか?現在の利府城とともに、城の歴史をひも解いていきます。

アイキャッチ画像:撮影 筆者
記事中画像:撮影 筆者

仙台城(青葉城)以外の仙台のお城を巡る企画

仙台城 伊達政宗騎馬像

撮影:編集部(現在の仙台城跡。築城は1600~1602年)

宮城県の城、仙台のお城と聞いて、真っ先に思い浮かぶのはやはり「仙台城(青葉城)」ですよね。

しかし仙台市にはあるのは、仙台城だけではありません。

 

この企画では仙台市とその周辺にある、お城跡にスポットライトを当てていきます。

政宗の叔父、留守政景が住んでいた「利府城」

第4回目となる今回は、宮城郡利府町にある「利府城(りふじょう)」を訪ねました。

 

仙台藩初代藩主にして、独眼竜の異名をもつ伊達政宗(だてまさむね)。

政宗公の叔父にあたる留守政景(るすまさかげ)が、城主を務めていました城です。

 

今回も実際に利府城跡を訪ねた筆者が、現在の姿とその歴史を紹介します。

利府城はどんなところ?

利府城

▲宮城県道8号仙台松島線(通称:利府街道)からみる利府城跡

利府城(りふじょう)があったのは、仙台駅から北へ15kmほど離れた宮城県利府町。

利府小学校の裏手の山に位置しており、標高は約90mの山に築かれました。

現在の利府小学校がある場所に、留守氏の屋敷などがあったと考えられています。

 

現在は館山公園として整備されていますが、曲輪、空堀、土塁などの遺構がみられます。

公園自体は利府町を代表する桜の名所となっているため、春の登城がオススメです。

利府城の歴史

利府城 石柱

築城年は明確にされていません。当時この土地一帯を支配し、陸奥国留守職(鎌倉幕府の陸奥国統治機関)であった※留守氏(るすし)の家臣、村岡氏が鎌倉時代に築城したと考えられています。

 

しばらく村岡氏が居城し、城は「村岡城」と呼ばれていました。

また地名も利府ではなく、1570年頃までは「村岡」だったようです。

※留守氏…仙台市の「岩切城」を拠点とし現在の利府町や多賀城市一帯を所領としていたとされる、武士の一族。
主家(主君)である留守氏は、戦国時代を境に伊達氏と密接な関係を築き、のちに村岡氏と利府城を巻き込む事態が発生します。
まずは留守氏と伊達氏の関わりから、みていきましょう!

伊達氏と留守氏の関係

伊達氏の台頭で変わる、陸奥国の勢力図

独眼竜、そして仙台藩初代藩主で知られる伊達政宗(だてまさむね)。

 

その一族である伊達氏が台頭してきたのは、15世紀~17世紀まで続く戦国時代の初期。

その頃、室町幕府のある京(中央)で※応仁の乱(1467年)が起こっており、世の中は動乱の真っ只中でした。

 

もともと将軍に強い求心力のなかった室町幕府は、応仁の乱を経て形骸化。

守護大名たちが、幕府の実権を握るようになります。

 

仕えるべき将軍よりも、家臣だった大名たちが優勢に立つ。いわゆる下剋上の風潮が社会に流れ、その影響は奥州にも現れます。

※応人の乱(1467~1478)…有力守護大名らの家督争いに、将軍を補佐する官領家が干渉したため、大規模な抗争へと発展した戦乱。また同時期に、将軍家の跡取り問題も発生。幕府と大名らが東西に分かれ、11年にも及ぶ戦乱となった。
※守護大名……守護に任命された幕府の武士が、地頭や地元の有力者を家臣にし、財や兵力を高めていき領土を支配する意味。戦後につくられた学術用語。

その頃奥州では、現在の宮城県南部を支配していた伊達氏が、勢力を伸ばしていきます。

伊達氏は奥州諸氏の家督争いに干渉し、後ろ盾を担うことで武士らの勢力を吸収していました。

 

その結果※奥州探題に従わず、伊達氏に付く武士が続々と出現します。

※奥州探題(おうしゅうたんだい)……守護(国単位で設置された幕府の軍事指揮官・行政官)の代わりに置かれた、奥州(青森、岩手、宮城、福島)の統治を担う幕府の役職。室町時代から戦国時代にかけて置かれた。

当時幕府から奥州探題として認められていたのは、※大崎氏(おおさきし)という一族。

室町幕府から代々探題職を受け継ぎ、奥州を管轄する立場で頂点に立っていました。

 

しかし次第に伊達氏の勢力におされるようになり、大崎氏の権威、探題の機能は失われていきます。

 

最終的には大永11年(1514)、伊達氏14代当主・伊達稙宗(だてたねむね)が※陸奥国守護職に任じられたことで、奥州探題制は崩壊。大崎氏を頂点とする秩序は失われます。

※守護職(しゅごしき)…室町幕府により国単位で設置された軍事指揮官・行政官。
  • 留守氏の当主に、伊達氏の縁者が置かれる

「伊達氏は奥州諸氏の家督争いに干渉し、後ろ盾を担うことで武士らの勢力を吸収していった」と前項で説明しましたが、その中には留守氏も含まれています。

留守氏で家督争いが起こり、伊達氏を後ろ盾に得た方が当主になったのです。

 

その件以降、留守氏は伊達氏の干渉を受けることが多くなり、ついには一族の当主に伊達氏の人間を据えることになります。

 

それが留守氏15代(一説に14代もあり)となった、伊達氏11代当主・伊達持宗(もちむね)の5男である郡宗(くにむね)。

さらに留守郡宗の子が早くに亡くなると、伊達氏13代当主・伊達尚宗(だて ひさむね)の次男・景宗(かげむね)を婿養子として、留守氏16代当主の家督を継がせました。

 

これは留守氏が言いなりになっていたわけではなく、伊達氏から跡継ぎをもらうことを得策と考えていた節があったようなのです。

というのも当時、幕府や大崎氏の権威が衰えていたため、各地の有力者たちが自身の領土拡大のために戦をやりたい放題起こしていました。

 

留守氏は勢いのある伊達氏の勢力下に入ることで、その勢力を背景に優位に立とうと考えていたと思われます。

 

そんな留守氏のライバル的な立場にあったのは、国分氏(こくぶんし)という一族。

ともに宮城郡(現在の松島町、七ヶ浜町、利府町)の地頭であり、南北朝時代に起こった「岩切合戦」を機に、互いに敵視していました。

 

岩切合戦では留守氏は敗北者側に付き、領土を国分氏に取り上げられ劣勢を強いられますが、伊達氏の勢力下に入ったことで、同等かそれ以上の力を取り戻します。

岩切合戦については、こちらの記事をぜひご覧ください!

留守景宗の死後、家督争いが起こる

  • 伊達氏との距離を縮めた「天文の乱」

留守16代当主・留守景宗は伊達氏の従軍に参加し、大崎の内乱(1536年)を平定させるなど活躍していきます。

 

また1542年に起こった伊達氏の親子喧嘩(天文の乱)の際は、子の伊達晴宗(はるむね)側に付き、伊達氏14代当主・稙宗(たねむね)側についた国分氏と戦を交えるなど、精力的に活動をしていました。

※大崎の内乱……大崎氏の領国で発生した内乱。大崎氏11代当主・大崎義直(おおさきよしなお)は14代当主・伊達稙宗(だてたねむね)の手を借り、反乱を鎮圧した。

天文の乱は幕府からの仲裁もあり、晴宗に家督を譲る形で幕を下ろしました。

内乱で活躍した留守景宗は、伊達氏15代当主・晴宗と密接な関係を築きます。

  • 反旗を翻す、家臣の利府城城主

1554年、16代目当主・留守景宗が亡くなります。

景宗の嫡男、留守顕宗(るす あきむね)が17代当主を継ぎますが、顕宗自身が高齢であったほか嫡男である宗綱(孫五郎)も病弱だったため、一族は早くも跡継ぎに悩まされました。

 

家臣たちの中でも、伊達家から跡継ぎを得ようとする派と、それに反対する派に分かれ、大きな亀裂が生じる事態に!

その際、利府城城主・村岡氏は、反伊達派でした。

 

しかし反対派を余所に縁談はとんとん拍子に勧められ、1567年伊達晴宗の3男・政景(まさかげ)が18代当主として留守氏に迎えられます。ちなみに留守政景は、伊達政宗の叔父にあたる人物です。

 

これに反伊達派の家臣は激怒! 政景は融和を図ろうとしましたが、1569年にとうとう村岡氏(右兵衛・左衛門兄弟)が挙兵します。

利府城は戦いの舞台になり翌年に落城、村岡氏は滅亡しました。

落城後の利府城

落城後、留守氏17代当主・留守政景は利府城を本拠地とします。

県北部を支配する大崎氏や葛西氏に対する守りの最前線として、利府城は重要視されていたためです。

 

政景は居城だった岩切城を離れ、村岡城へ移ってきます。

このとき政景によって、地名が「村岡」から「利府」と改称されたといわれています。

 

政景は城の修繕と改修を行い、その後20年あまり本拠地として利用しました。

しかし1590年の小田合戦の際に、豊臣秀吉の参陣要望に応じなかったため、合戦後の※奥州仕置で政景は所領を没収されてしまいます。

※奥州仕置……豊臣秀吉による、奥羽地方に対する領土仕置(没収)。

留守政景のその後は?

留守政景の説明

奥州仕置で領土を没収された後、甥の伊達政宗に仕えた留守政景。

江戸時代に入り伊達姓に戻ることを許された政景は、伊達政景として一門の家格に列せられます。そして3年後の1607年、59歳で亡くなりました。

 

菩提寺は。岩手県奥州市水沢にある大安寺(だいあんじ)。

この寺には4人の殉死者と共に描かれた、政景の貴重な肖像画が残っています。

 

長男の宗利は金ケ崎城主となり、その後は水沢城主となりました。

政景は仙台藩の一門である、水沢伊達家の祖となったのです。

現在の利府城を散策してみる

利府城 地図

利府城跡がある、館山公園内を散策してみることに。

なお公園内は22時消灯するため、訪問時間にお気を付けください。

 

駐車場Bと駐車場Aを通り過ぎて、北側入口から障者駐車場がある駐車場を目指します。

桜の園近くにも駐車場があるので、そこまで車で向かうことに。

利府城跡 杉並木

駐車場までの道は、まるでトトロか何か出てきそうな山林が広がっています。

隙間から差し込む陽ざしが気持ち良いです。

 

道幅は車1台分しかありませんので、対向車に注意してください(途中に待避場所有り)。

駐車場に到着。ロープで区切られており、20台ほど駐車可能です(無料)。

利府城跡の障者駐車場

向かい側にある障者駐車場。4台駐車可能です(無料)。

利府城跡 分かれ道

駐車場を降りてすぐ、右と左に分かれる案内板に遭遇。人生は常に選択の連続です。

とりあえず本丸跡(桜の園)がある、右手の道を選びました。

利府城跡 トイレ

そのまま登って行くと、正面にトイレがみえてきました。

館山公園案内板

トイレ向かい側の登り口に、館山公園(利府城跡)案内図が設置されてます。

利府城跡 階段

山城なので、トイレからさらに上へと登っていきます。

利府城跡からみえる景色

登る途中にみえる北側の風景。周囲は大規模な山林に囲まれているめ、眺望はいまいち……。

気を取り直して、本丸跡までもうちょっとです。

利府城 本丸跡

▲駐車場から徒歩15分ほど

本丸跡に到着! 現在は桜の園という名称が付いており、周りは桜の木でいっぱい!

2019年にはライトアップも行われ、夜桜観賞を楽しめました(4月上旬~下旬)。

利府城 説明板

ベンチの横にある案内板。利府城の説明や発掘調査の他に、最期の城主であった留守政景(るすまさかげ)と殉死した4名の家臣の肖像画がありました。

利府城跡 石柱

本丸跡の頂上に到着です。

利府城跡 東屋

石柱から左側の風景。四阿がありました。

利府城跡 大きい東屋

大きめの四阿(あずまや)です。四阿は柱が4本でつくられているものが多いですが、ここは6本あります。

利府城を説明する案内板

四阿の近くに、利府城の説明板を発見。もともとは留守氏の家臣、村岡氏の居城だった利府城。

その後主君の後継者争いで敗北し、利府城はは戦いの舞台となります。

 

今から450年ほど前、武士たちが真剣を交し合った利府城。現在は花見の名所として、人々の憩いの場となっています。

利府城 景色を紹介する案内板

▲夜は夜景も楽しめる(園内は22時消灯)

先に進むと展望台のようなところがありました。本丸跡から望める景色を紹介しています。

利府城から望む景色

標高約90mから望む、東側の景観です。三陸自動車道、新幹線総合車両センターもみえますね。

利府城 園内 遊歩道

さらに奥へ進んでみます。園内に道が通っており、しっかり整備されているので安心です。

利府城跡 石碑

▲石碑は全部で3つほどありました。

利府城跡の石柱のとなりに石碑がありましたが、筆者には解読不能でした。

利府城 道

また分岐点が現れます。とりあえず下へ進んでみることに。

利府城 細道

下りは細道です。どんどん進んで行きます。

利府城 斜面

振り返ってみると、何となくですが城の形がわかります。

利府城 分かれ道

坂を下って行くと、合流地点にたどり着きました。どうやら最初の分かれ道で、左を選択したときの道に出るようです。

 

このまま二の丸があったとされる「憩いの丘」や「ふれあい広場」方面へ向かいます。

利府城 二の丸

広場に出ました。平坦な場所なので曲輪があったのかもしれませんが、それらしき跡は見当たりません。

利府城 二の丸

こちらにもトイレと四阿がありました。

利府城 四季のエリア

憩いの丘を通りすぎた先にあるのは、「四季の広場(芝生広場)」。木陰になっているところに、ベンチ置かれています。

利府城跡 遊歩道

さらに奥へ進むと、坂が現れました。三の丸があったとされる「冒険の丘」エリアへ続く道です。

利府城跡 土管

冒険の丘の入り口には「どかん広場」があり、名前の通り土管がたくさん並べられていました。

利府城跡 三の丸

こちらは冒険の丘に大部分を占める「頂上広場」です。頂上ということは、ここが主郭だったのでしょうか。奥行きがあり、広く感じます。

利府城跡 木馬

遊具の木馬もありました。ちょっと絵になる1枚。

利府城跡 ベンチ

「冒険の丘」エリアから戻る途中にあるベンチ。樹木を眺めながら、物思いにふけるのも良いですね。

 

利府城跡散策はこんな感じでした! 公園として整備されているため、かつての面影はあまりみられませんでしたが、それなりに雰囲気は感じられる所でした。

 

利府町に泊まる!

宿泊施設の数は多くありませんが、江戸時代創業の老舗料理旅館や、インターの近くにはビジネスホテルもあります。

塩釜や松島へも近いので、利府城跡を満喫した後は観光へくり出すのもいいかもしれません。ぜひチェックしてみてくださいね!

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家臣の館から、伊達氏の居城となった利府城跡

利府城 自然

▲利府城の頂上

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、伊達軍総大将として上杉軍とも戦った留守政景。伊達政宗からの信頼は極めて厚く、政宗と政景の親密さをうかがわせる文献も残っています。

そんな政景のゆかりの地である利府城跡。あなたも一度訪れてみてはいかがでしょうか。

所在地:
〒981-0112 宮城県宮城郡利府町利府城内
アクセス:
<電車>
JR仙台駅から東北本線「利府行き」に乗車し約20分、「利府駅」で下車徒歩約20分
<車>三陸自動車道 利府中I.Cから約10分
駐車場:
無料/駐車場A:23台、駐車場B:19台、山頂手前の駐車場:20台(障者駐車場:4台)

 

▼①~③のお城はこちら!

 

利府城跡 杉並木
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stingray

札幌出身で趣味はギター。前職の転勤で仙台に移り住み、気が付いたらもう30年になります。仙台は海の幸や山の幸も美味しく、とても暮らしやすい所です。そんな仙台の魅力や地元ならではの情報をお届け致します。