利府城の歴史

利府城 石柱

築城年は明確にされていません。当時この土地一帯を支配し、陸奥国留守職(鎌倉幕府の陸奥国統治機関)であった※留守氏(るすし)の家臣、村岡氏が鎌倉時代に築城したと考えられています。

 

しばらく村岡氏が居城し、城は「村岡城」と呼ばれていました。

また地名も利府ではなく、1570年頃までは「村岡」だったようです。

※留守氏…仙台市の「岩切城」を拠点とし現在の利府町や多賀城市一帯を所領としていたとされる、武士の一族。
主家(主君)である留守氏は、戦国時代を境に伊達氏と密接な関係を築き、のちに村岡氏と利府城を巻き込む事態が発生します。
まずは留守氏と伊達氏の関わりから、みていきましょう!

伊達氏と留守氏の関係

伊達氏の台頭で変わる、陸奥国の勢力図

独眼竜、そして仙台藩初代藩主で知られる伊達政宗(だてまさむね)。

 

その一族である伊達氏が台頭してきたのは、15世紀~17世紀まで続く戦国時代の初期。

その頃、室町幕府のある京(中央)で※応仁の乱(1467年)が起こっており、世の中は動乱の真っ只中でした。

 

もともと将軍に強い求心力のなかった室町幕府は、応仁の乱を経て形骸化。

守護大名たちが、幕府の実権を握るようになります。

 

仕えるべき将軍よりも、家臣だった大名たちが優勢に立つ。いわゆる下剋上の風潮が社会に流れ、その影響は奥州にも現れます。

※応人の乱(1467~1478)…有力守護大名らの家督争いに、将軍を補佐する官領家が干渉したため、大規模な抗争へと発展した戦乱。また同時期に、将軍家の跡取り問題も発生。幕府と大名らが東西に分かれ、11年にも及ぶ戦乱となった。
※守護大名……守護に任命された幕府の武士が、地頭や地元の有力者を家臣にし、財や兵力を高めていき領土を支配する意味。戦後につくられた学術用語。

その頃奥州では、現在の宮城県南部を支配していた伊達氏が、勢力を伸ばしていきます。

伊達氏は奥州諸氏の家督争いに干渉し、後ろ盾を担うことで武士らの勢力を吸収していました。

 

その結果※奥州探題に従わず、伊達氏に付く武士が続々と出現します。

※奥州探題(おうしゅうたんだい)……守護(国単位で設置された幕府の軍事指揮官・行政官)の代わりに置かれた、奥州(青森、岩手、宮城、福島)の統治を担う幕府の役職。室町時代から戦国時代にかけて置かれた。

当時幕府から奥州探題として認められていたのは、※大崎氏(おおさきし)という一族。

室町幕府から代々探題職を受け継ぎ、奥州を管轄する立場で頂点に立っていました。

 

しかし次第に伊達氏の勢力におされるようになり、大崎氏の権威、探題の機能は失われていきます。

 

最終的には大永11年(1514)、伊達氏14代当主・伊達稙宗(だてたねむね)が※陸奥国守護職に任じられたことで、奥州探題制は崩壊。大崎氏を頂点とする秩序は失われます。

※守護職(しゅごしき)…室町幕府により国単位で設置された軍事指揮官・行政官。
  • 留守氏の当主に、伊達氏の縁者が置かれる

「伊達氏は奥州諸氏の家督争いに干渉し、後ろ盾を担うことで武士らの勢力を吸収していった」と前項で説明しましたが、その中には留守氏も含まれています。

留守氏で家督争いが起こり、伊達氏を後ろ盾に得た方が当主になったのです。

 

その件以降、留守氏は伊達氏の干渉を受けることが多くなり、ついには一族の当主に伊達氏の人間を据えることになります。

 

それが留守氏15代(一説に14代もあり)となった、伊達氏11代当主・伊達持宗(もちむね)の5男である郡宗(くにむね)。

さらに留守郡宗の子が早くに亡くなると、伊達氏13代当主・伊達尚宗(だて ひさむね)の次男・景宗(かげむね)を婿養子として、留守氏16代当主の家督を継がせました。

 

これは留守氏が言いなりになっていたわけではなく、伊達氏から跡継ぎをもらうことを得策と考えていた節があったようなのです。

というのも当時、幕府や大崎氏の権威が衰えていたため、各地の有力者たちが自身の領土拡大のために戦をやりたい放題起こしていました。

 

留守氏は勢いのある伊達氏の勢力下に入ることで、その勢力を背景に優位に立とうと考えていたと思われます。

 

そんな留守氏のライバル的な立場にあったのは、国分氏(こくぶんし)という一族。

ともに宮城郡(現在の松島町、七ヶ浜町、利府町)の地頭であり、南北朝時代に起こった「岩切合戦」を機に、互いに敵視していました。

 

岩切合戦では留守氏は敗北者側に付き、領土を国分氏に取り上げられ劣勢を強いられますが、伊達氏の勢力下に入ったことで、同等かそれ以上の力を取り戻します。

岩切合戦については、こちらの記事をぜひご覧ください!

留守景宗の死後、家督争いが起こる

  • 伊達氏との距離を縮めた「天文の乱」

留守16代当主・留守景宗は伊達氏の従軍に参加し、大崎の内乱(1536年)を平定させるなど活躍していきます。

 

また1542年に起こった伊達氏の親子喧嘩(天文の乱)の際は、子の伊達晴宗(はるむね)側に付き、伊達氏14代当主・稙宗(たねむね)側についた国分氏と戦を交えるなど、精力的に活動をしていました。

※大崎の内乱……大崎氏の領国で発生した内乱。大崎氏11代当主・大崎義直(おおさきよしなお)は14代当主・伊達稙宗(だてたねむね)の手を借り、反乱を鎮圧した。

天文の乱は幕府からの仲裁もあり、晴宗に家督を譲る形で幕を下ろしました。

内乱で活躍した留守景宗は、伊達氏15代当主・晴宗と密接な関係を築きます。

  • 反旗を翻す、家臣の利府城城主

1554年、16代目当主・留守景宗が亡くなります。

景宗の嫡男、留守顕宗(るす あきむね)が17代当主を継ぎますが、顕宗自身が高齢であったほか嫡男である宗綱(孫五郎)も病弱だったため、一族は早くも跡継ぎに悩まされました。

 

家臣たちの中でも、伊達家から跡継ぎを得ようとする派と、それに反対する派に分かれ、大きな亀裂が生じる事態に!

その際、利府城城主・村岡氏は、反伊達派でした。

 

しかし反対派を余所に縁談はとんとん拍子に勧められ、1567年伊達晴宗の3男・政景(まさかげ)が18代当主として留守氏に迎えられます。ちなみに留守政景は、伊達政宗の叔父にあたる人物です。

 

これに反伊達派の家臣は激怒! 政景は融和を図ろうとしましたが、1569年にとうとう村岡氏(右兵衛・左衛門兄弟)が挙兵します。

利府城は戦いの舞台になり翌年に落城、村岡氏は滅亡しました。

落城後の利府城

落城後、留守氏17代当主・留守政景は利府城を本拠地とします。

県北部を支配する大崎氏や葛西氏に対する守りの最前線として、利府城は重要視されていたためです。

 

政景は居城だった岩切城を離れ、村岡城へ移ってきます。

このとき政景によって、地名が「村岡」から「利府」と改称されたといわれています。

 

政景は城の修繕と改修を行い、その後20年あまり本拠地として利用しました。

しかし1590年の小田合戦の際に、豊臣秀吉の参陣要望に応じなかったため、合戦後の※奥州仕置で政景は所領を没収されてしまいます。

※奥州仕置……豊臣秀吉による、奥羽地方に対する領土仕置(没収)。

留守政景のその後は?

留守政景の説明

奥州仕置で領土を没収された後、甥の伊達政宗に仕えた留守政景。

江戸時代に入り伊達姓に戻ることを許された政景は、伊達政景として一門の家格に列せられます。そして3年後の1607年、59歳で亡くなりました。

 

菩提寺は。岩手県奥州市水沢にある大安寺(だいあんじ)。

この寺には4人の殉死者と共に描かれた、政景の貴重な肖像画が残っています。

 

長男の宗利は金ケ崎城主となり、その後は水沢城主となりました。

政景は仙台藩の一門である、水沢伊達家の祖となったのです。

現在の利府城を散策してみる

利府城 地図

利府城跡がある、館山公園内を散策してみることに。

なお公園内は22時消灯するため、訪問時間にお気を付けください。

 

駐車場Bと駐車場Aを通り過ぎて、北側入口から障者駐車場がある駐車場を目指します。

桜の園近くにも駐車場があるので、そこまで車で向かうことに。

次ページへ
< 前へ 次へ >
- 2/3 -

関連するおすすめ記事

仙台エリアに関するトピック

仙台エリア × 観光スポットもっと見る >
仙台エリア × 温泉・宿泊もっと見る >
仙台エリア × グルメ・お土産もっと見る >
仙台エリア × 歴史・人物もっと見る >
仙台エリア × イベント・祭事もっと見る >
仙台エリア × 体験・レジャーもっと見る >
仙台エリア × ニュースもっと見る >
仙台エリア × ライフ・生活もっと見る >