① 政宗が生誕した「米沢城」/山形県米沢市

上杉神社境内

出典:PIXTA

上杉神社 社殿

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政宗が誕生したのは、現在の山形県米沢市にあった「米沢城(よねざわじょう)」です。市街地のほぼ中心部に位置しており、現在は跡地となっています。

本丸跡は上杉謙信を祀る「上杉神社」の境内となっており、二の丸跡には「米沢市上杉記念館」が建っています。

政宗が青年期を過ごした城

伊達氏15代当主・晴宗(はるむね)が居城を米沢城へ移してから伊達氏の本拠地となりました。政宗は青年期を米沢城で過ごし、天生17年(1589)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で蘆品氏に勝利すると、米沢城から会津の「黒川城(のちの会津若松城)」へ本拠地を移します。

 

しかし秀吉による※奥州仕置で、政宗は会津領を失うことに……。わずか1年半ほどで米沢城へ戻ってきます。

※奥州仕置(おうしゅうしおき)…小田原合戦に参戦しなかった奥州の大名たちへの、秀吉によるお仕置き。今までの領地をリセットし、秀吉が新たな領地割を行われた。

伊達氏→蒲生氏→そして上杉氏へ

しかしその後、政宗は秀吉から岩出山へ移封を命じられ、米沢城も手放すことになります。理由は天正18年(1590)に起こった葛西大崎一揆に、政宗が関与したという疑惑があったためです。

政宗の弁明を表向きは認めた秀吉ですが、米沢城から岩出山への移封、そして伊達氏の所領12郡余72万石のうち6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)の44万石を没収しました。

 

伊達氏の代わりに米沢城に居城したのは、秀吉より60万5千石与えられた蒲生氏郷(がもう うじさと)。蒲生氏は米沢城を支城とし、城主に重臣の蒲生郷安(がもう さとやす)を置きます。

しかし氏郷の死後、領内で内紛が勃発。秀吉からお役御免を告げられた蒲生氏は、わずか7~8年で米沢を去ります。

 

蒲生氏の代わりに米沢を治めることになったのは、秀吉から国替えを命じられ会津120万石を有することになった上杉氏。

上杉謙信の息子・上杉景勝の重臣である直江兼続(なおえ かねつぐ)が米沢城の城主となり、慶長6年(1601)に上杉景勝が城主となります。

 

以降明治までは、上杉氏の居城となった米沢城。ちなみに上杉神社を創建したのは兼続で、越後から謙信の亡骸を移し安置したといわれています。

※支城(しじょう)…本城を守るように配置された、補助的な役割を持つ城。

 

【米沢城跡(松が岬公園)の基本情報】

所在地:

〒992-0052 山形県米沢市丸の内1

アクセス:

JR「米沢駅」から循環バス(ヨネザアド号)に乗り約10分、「上杉神社前」下車徒歩3分(210円)

☆バスの時刻表はこちら

※一日乗車券あり

駐車場:

・松が岬 おまつり広場 駐車場(無料/約300台)※4月下旬~5月上旬の「米沢上杉まつり」期間中は利用不可

・上杉城史苑 駐車場(無料/約80台)

・伝国の杜 駐車場(無料/約100台)

② 悲劇の城「小手森城」/福島県二本松市

”伊達政宗の※撫で斬り”といえば、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』でも描かれた、有名な悲話。その舞台となったのが、「小手森城(おでもりじょう)」です。

 

伊達氏を裏切り、敵側へ寝返った戦国大名・大内定綱(おおうち さだつな)を追い、政宗は小手森城(おでもりじょう)へ進軍。

大内氏の家臣・菊池顕綱(きくち あきつな)らが城を守っていましたが、激しい攻防に力尽き天正13年(1585)に落城します。

 

そこで政宗は、城に籠っていた農民の老若男女合わせ800名余のすべてを斬り殺し、その行いは織田信長の比叡山焼き討ちに比すべきものだった、と言われています。

ちなみに大内定綱は、小手森城が攻め落とされる前に逃亡。政宗は標的を仕留め損ねてしまい、本城である「小浜城」に向けて進軍を続けます。

※撫で斬り…沢山の人を一度に次々と全て切り倒すこと。

死者の数は誇張?

ただ死者の数については諸説あり、その事実はわかっていません。

というのも、政宗はこの虐殺について家臣や僧侶、親戚に手紙を送っていますが、送り主によって死者の人数が違ったり、犬まで殺したという記載があったり、「実数は把握していないが、私は満足」といった文面もみられ、さまざまな情報が錯そうしているためです。

 

兵力や戦果の誇張は常識、というのが戦国時代。実際の人数は定かではありませんが、大勢の人が政宗の手によって虐殺されたのは事実で、周辺の大名や住民に強烈なショックを与えました。

とはいえ戦国時代ですから、女子供、戦闘員や非戦闘員の区別なく皆殺しにされるのは珍しい話ではありません。

 

しかし小手森城の悲劇はここで終わりません。政宗から小手森城を与えられた、石川弾正が居城します。しかし弾正はある時を境に政宗に不満を抱き、天生16年(1588)に挙兵。

政宗は背臣となった弾正を討つべく、小手森城へ進軍。城は再び戦火に飲まれ、500名余が討ち死にしたと伝えてられています。

小手森城は落城、このとき弾正も討ち死にしたと考えられていますが、落ち延びた説もあります。

城の名残がいまも残る

小手森城の本丸跡には、愛宕神社が鎮座しており、石垣や土塁などが残っています。

また虐殺の現場であるため、心霊スポットとして取り上げられており、肝試しに訪れた人が後日発熱するなど、怪奇な現象も報告されているようです。

いずれにせよ、遊び半分の気持ちで訪れるのは絶対にやめましょう。

 

【小手森城の基本情報】

所在地:

福島県二本松市針道愛宕森

アクセス:

東北自動車道 二本松I.Cから約30分

JR東北本線「二本松駅」から福島交通バス(針道経由東和小学校)に乗車し訳32分、宮の平下車徒歩約10分

駐車場:

なし

③ 無血入城を果たした「小浜城」/福島県二本松市

「小浜城(おばまじょう)」は先ほど登場した戦国大名の大内氏によって、15世紀後半に築かれた城といわれています。

大内氏の旧領地だった若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の地形に似ていることから、小浜と名付けられたようです。

主君を裏切り、城主となった大内氏

大内氏は若狭国小浜から塩松(現在の福島県二本松市の一部)へ来住し、この辺り一帯を治めていた石橋氏の家臣となりました。

しかし世は、下剋上の戦国時代。大内氏は主君の石橋尚義(いしばし ひさよし)を追い出し、塩松の領主となります。石橋氏はその後滅亡。

大内氏、伊達氏から蘆名氏へ乗り換える

その後、大内氏は伊達氏に従属していましたが、大内定綱(おおうち さだつな)の時代に敵である会津の蘆名氏に転じます。

定綱の裏切りに激怒した政宗は、自ら軍を率いて塩松地方へ進軍。先ほど紹介した小手森城を落とし、小浜城を目指しました。

 

しかし定綱は蘆名氏を頼って逃げ出したため、政宗は小浜城の無血入城を果たします。その後政宗は二本松氏(奥州畠山氏)の攻撃拠点として、小浜城に1年間滞在しました。

 

せっかく手に入れた塩松地方ですが、天正19年(1591年)の奥州仕置で秀吉に没収されます。塩松地方は蒲生氏郷に与えられ、家臣の蒲生忠右衛門(がもう ちゅうえもん)が小浜城の城主となったのです。

その後は上杉氏、再び蒲生氏が治め、江戸時代の寛永4年(1627)に廃城となります。

 

小浜城は二本松市の市役所(岩代支所)の裏手にそびえる小高い丘に築かれ、現在の主郭は遊具などを備えた公園となっています。

見どことろは道路に面して残る高石垣で、忠右衛門の時代に築かれたもののようです。

 

【小浜城の基本情報】

所在地:

福島県二本松市小浜下舘

アクセス:

<車>

東北自動車道 二本松I.Cから約15分

<電車>

JR東北本線「二本松駅」から福島交通バス(小浜行き)乗り約23分、終点「岩代支所」下車徒歩約10分

駐車場:

なし

④ 政宗の時代もあった「黒川城(会津若松城/鶴ヶ城)」/福島県会津若松市

鶴ヶ城

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鶴ヶ城 桜

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鶴ヶ城(会津若松城城)というと、戊辰戦争の舞台という印象が強いですよね。幕末の悲劇白虎隊や、2013年にはNHK大河ドラマ『八重の桜』が放送され、話題になりました。

 

江戸時代から時を遡り、戦国時代。会津を治めていたのは先ほどから名前が出ている、伊達氏と敵対する大名・蘆名氏(あしな)です。

鎌倉時代から400年ほど会津に根を張り、鶴ヶ城の前身「黒川城」も蘆名氏によって築城されたと考えられています。

 

蘆名盛氏(あしな もりうじ)の時代に最盛期を迎え、奥州において伊達氏と肩を並べる有力大名でした。

政宗が蘆名氏を下し、会津を支配

しかし天正17年(1589)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で伊達氏に敗れた蘆名氏は、実父のいる常陸国へ敗走。

政宗は黒川城と会津を手に入れ、山形県、宮城県、福島県の3県をまたぐ広大な領地を手に入れたのです。

 

しかし政宗の侵攻は、天生15年(1587)に秀吉から関東・奥州の大名向けに出されていた、大名同士の私戦謹慎「惣部事令(そうぶじれい)」に反していたため、奥州仕置で秀吉から没収されてしまいます。

そのため秀吉の奥州仕置により、わずか1年半ほどで会津を手放すことになったのです。

蘆名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉氏→再び蒲生氏へ

天下統一した秀吉ですが、奥州には伊達政宗と最上氏、越後には上杉氏、そして徳川家康と、警戒すべき武将たちが残っています。

また東北という未開拓の地であること、仕置きで没収された領地を取り戻そうと大名らが戦を起こす可能性も十分にあったため、会津の領主に誰を据えるかはかなり重要な決断だったといえます。

 

そして指名されたのは、あの織田信長が認めた名将・蒲生氏郷(がもう うじさと)。氏郷の頃に黒川城から「鶴ヶ城(つるがじょう)」と名称が変わり、現在も通称として親しまれています。

しかし氏郷の息子・秀行の代になると領内で内紛が起き、秀吉に力不足と判定された蒲生氏は国替えを命じられます。

 

蒲生氏の代わりに会津を任せられたのは、上杉氏。当主は上杉謙信の息子・上杉景勝です。

しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝は、翌年家康によって米沢城に移封されてしまいます。再び蒲生氏秀行が会津へ戻り、4代目まで城主を務めました。

 

その後は、加藤氏、保科氏、松平氏へ城主が変わり、戊辰戦争へ突入。新政府の猛攻に一か月間も籠城で耐え、落ちることはありませんでした。

明治7年(1874)に石垣のみを残して廃城となりますが、昭和40年に天守閣が再建。現在は鶴ヶ城公園として整備されています。

 

【黒川城(会津若松城/鶴ヶ城)の基本情報】

所在地:

福島県会津若松市追手町1-1

アクセス:

<車>

磐越自動車道 会津若松I.Cより約15分

<電車>

JR会津駅から、まちなか周遊バス「ハイカラさん」または「あかべぇ」に乗車し「鶴ヶ城入口」または「鶴ヶ城三の丸口」下車し徒歩5分

駐車場:

あり/有料/3か所

西出丸駐車場:普200台収容可
東口駐車場:普129台収容可
南口駐車場:普35台収納能

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