【東北】伊達政宗ゆかりの城を巡る(時系列順)

2020/10/26 更新

東北各地に点在する、伊達政宗ゆかりの城を巡ります。生誕した山形県の米沢城からスタートし、ドラマでも描かれた悲話の城、政宗の時代もあった有名な城、12年間過ごした城、仙台城、晩年を過ごした城。政宗との関りや、政宗去った後の城の歴史を交えて紹介します。

出典:PIXTA

ザックリ紹介「伊達政宗」

伊達政宗 騎馬像

撮影:編集部

伊達政宗(だてまさむね)が誕生したのは、戦国時代まっ只中の永禄10年(1567)。織田信長が天下統一に向けて躍進している最中で、上杉謙信や武田信玄、毛利元就などの名将らも存命でした。

政宗は、南奥州の覇権を握った武将

奥州 地図

出典:いらすとや(作成:編集部)

しかし政宗が元服する前に名将たちは倒れ、天正12年(1584)の本能寺の変で信長も討たれました。

政宗が家督を継いだのは、本能寺の変から2年後のこと。18歳という若さでありながら周辺の諸大名を次々と屈服させていき、※南奥州の覇権を握ります。

 

政宗が奥州で戦を重ねていくなか、中央では豊臣秀吉が九州を平定。残るは北条氏の関東と、政宗のいる奥州のみとなったのです。

※奥州…陸奥国のこと。現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県。

「羽州」は出羽国を指し、現在の秋田県と山形県のこと。東北全体のことを「奥羽」と呼ぶ場合がある。

政宗は、したたかな野心家

伊達政宗

撮影:編集部

関東の北条氏が滅んだ小田原合戦を機に、政宗は豊臣秀吉に従順します。秀吉の死後は徳川家康に服し、生涯忠誠を誓いました。

……と表向きは天下人に従った政宗ですが、若いころはどさくさに紛れて領土の拡張を企むなど、野心家の一面もあり天下人からは警戒されていたようです。

 

有名なエピソードは「百万石のお墨付き」。関ヶ原合戦の際に家康から「東軍に味方して勝利した暁には、秀吉に没収された会津領の自力回復を許す」と言われ、政宗は東軍に付きます。

しかしあろうことか政宗は、戦の混乱に乗じて味方である東軍の大名の領地を乗っ取ろうとしたのです。結果、家康にバレてしまい、百万石のお墨付きは反故されたという話です。

政宗は、仙台藩初代藩主

仙台城 地図

撮影:編集部

その後江戸幕府が開かれ、仙台藩藩祖となった政宗。戦のない太平の世では、藩という自分の国をまとめる為政者として活躍します。

居城としたのは、現在の仙台市青葉区に築いた「仙台城(青葉城)」。その時代には珍しく、攻めにくく守りやすい戦向きの山城でした。

 

まだ天下への野心を抱いていたのではないか? とも考察されますが、戦国時代の時のような謀略は図らなかったと言われています。

 

また百万石とはいきませんでしたが、仙台藩の石高62万石は全国3位! 1位は加賀国の金沢藩120万石、2位は薩摩国の薩摩藩72万8千石です。

政宗は、江戸幕府にとっても特別な存在だった

仙台藩外桜田上屋敷跡

出典:PIXTA(東京都千代田区「日比谷公園」伊達政宗終焉の地)

政宗は江戸城下の藩邸で、70年の生涯を閉じました。

政宗は徳川家に忠誠を尽くし、家康、秀忠、家光と3代に渡って将軍に仕えます。とくに家光からは「伊達の親父殿」と呼ばれ、かなり慕われていたようです。

 

政宗が亡くなると、家光は江戸で7日、京で3日間喪に服す命を出すという、他の大名にはない異例の対応をとったと言われています。

今回はそんな伊達政宗に由縁のある、東北のお城を時系列順位ご紹介したいと思います。

① 政宗が生誕した「米沢城」/山形県米沢市

上杉神社境内

出典:PIXTA

上杉神社 社殿

出典:PIXTA

政宗が誕生したのは、現在の山形県米沢市にあった「米沢城(よねざわじょう)」です。市街地のほぼ中心部に位置しており、現在は跡地となっています。

本丸跡は上杉謙信を祀る「上杉神社」の境内となっており、二の丸跡には「米沢市上杉記念館」が建っています。

政宗が青年期を過ごした城

伊達氏15代当主・晴宗(はるむね)が居城を米沢城へ移してから伊達氏の本拠地となりました。政宗は青年期を米沢城で過ごし、天生17年(1589)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で蘆品氏に勝利すると、米沢城から会津の「黒川城(のちの会津若松城)」へ本拠地を移します。

 

しかし秀吉による※奥州仕置で、政宗は会津領を失うことに……。わずか1年半ほどで米沢城へ戻ってきます。

※奥州仕置(おうしゅうしおき)…小田原合戦に参戦しなかった奥州の大名たちへの、秀吉によるお仕置き。今までの領地をリセットし、秀吉が新たな領地割を行われた。

伊達氏→蒲生氏→そして上杉氏へ

しかしその後、政宗は秀吉から岩出山へ移封を命じられ、米沢城も手放すことになります。理由は天正18年(1590)に起こった葛西大崎一揆に、政宗が関与したという疑惑があったためです。

政宗の弁明を表向きは認めた秀吉ですが、米沢城から岩出山への移封、そして伊達氏の所領12郡余72万石のうち6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)の44万石を没収しました。

 

伊達氏の代わりに米沢城に居城したのは、秀吉より60万5千石与えられた蒲生氏郷(がもう うじさと)。蒲生氏は米沢城を支城とし、城主に重臣の蒲生郷安(がもう さとやす)を置きます。

しかし氏郷の死後、領内で内紛が勃発。秀吉からお役御免を告げられた蒲生氏は、わずか7~8年で米沢を去ります。

 

蒲生氏の代わりに米沢を治めることになったのは、秀吉から国替えを命じられ会津120万石を有することになった上杉氏。

上杉謙信の息子・上杉景勝の重臣である直江兼続(なおえ かねつぐ)が米沢城の城主となり、慶長6年(1601)に上杉景勝が城主となります。

 

以降明治までは、上杉氏の居城となった米沢城。ちなみに上杉神社を創建したのは兼続で、越後から謙信の亡骸を移し安置したといわれています。

※支城(しじょう)…本城を守るように配置された、補助的な役割を持つ城。

 

【米沢城跡(松が岬公園)の基本情報】

所在地:

〒992-0052 山形県米沢市丸の内1

アクセス:

JR「米沢駅」から循環バス(ヨネザアド号)に乗り約10分、「上杉神社前」下車徒歩3分(210円)

☆バスの時刻表はこちら

※一日乗車券あり

駐車場:

・松が岬 おまつり広場 駐車場(無料/約300台)※4月下旬~5月上旬の「米沢上杉まつり」期間中は利用不可

・上杉城史苑 駐車場(無料/約80台)

・伝国の杜 駐車場(無料/約100台)

② 悲劇の城「小手森城」/福島県二本松市

”伊達政宗の※撫で斬り”といえば、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』でも描かれた、有名な悲話。その舞台となったのが、「小手森城(おでもりじょう)」です。

 

伊達氏を裏切り、敵側へ寝返った戦国大名・大内定綱(おおうち さだつな)を追い、政宗は小手森城(おでもりじょう)へ進軍。

大内氏の家臣・菊池顕綱(きくち あきつな)らが城を守っていましたが、激しい攻防に力尽き天正13年(1585)に落城します。

 

そこで政宗は、城に籠っていた農民の老若男女合わせ800名余のすべてを斬り殺し、その行いは織田信長の比叡山焼き討ちに比すべきものだった、と言われています。

ちなみに大内定綱は、小手森城が攻め落とされる前に逃亡。政宗は標的を仕留め損ねてしまい、本城である「小浜城」に向けて進軍を続けます。

※撫で斬り…沢山の人を一度に次々と全て切り倒すこと。

死者の数は誇張?

ただ死者の数については諸説あり、その事実はわかっていません。

というのも、政宗はこの虐殺について家臣や僧侶、親戚に手紙を送っていますが、送り主によって死者の人数が違ったり、犬まで殺したという記載があったり、「実数は把握していないが、私は満足」といった文面もみられ、さまざまな情報が錯そうしているためです。

 

兵力や戦果の誇張は常識、というのが戦国時代。実際の人数は定かではありませんが、大勢の人が政宗の手によって虐殺されたのは事実で、周辺の大名や住民に強烈なショックを与えました。

とはいえ戦国時代ですから、女子供、戦闘員や非戦闘員の区別なく皆殺しにされるのは珍しい話ではありません。

 

しかし小手森城の悲劇はここで終わりません。政宗から小手森城を与えられた、石川弾正が居城します。しかし弾正はある時を境に政宗に不満を抱き、天生16年(1588)に挙兵。

政宗は背臣となった弾正を討つべく、小手森城へ進軍。城は再び戦火に飲まれ、500名余が討ち死にしたと伝えてられています。

小手森城は落城、このとき弾正も討ち死にしたと考えられていますが、落ち延びた説もあります。

城の名残がいまも残る

小手森城の本丸跡には、愛宕神社が鎮座しており、石垣や土塁などが残っています。

また虐殺の現場であるため、心霊スポットとして取り上げられており、肝試しに訪れた人が後日発熱するなど、怪奇な現象も報告されているようです。

いずれにせよ、遊び半分の気持ちで訪れるのは絶対にやめましょう。

 

【小手森城の基本情報】

所在地:

福島県二本松市針道愛宕森

アクセス:

東北自動車道 二本松I.Cから約30分

JR東北本線「二本松駅」から福島交通バス(針道経由東和小学校)に乗車し訳32分、宮の平下車徒歩約10分

駐車場:

なし

③ 無血入城を果たした「小浜城」/福島県二本松市

「小浜城(おばまじょう)」は先ほど登場した戦国大名の大内氏によって、15世紀後半に築かれた城といわれています。

大内氏の旧領地だった若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の地形に似ていることから、小浜と名付けられたようです。

主君を裏切り、城主となった大内氏

大内氏は若狭国小浜から塩松(現在の福島県二本松市の一部)へ来住し、この辺り一帯を治めていた石橋氏の家臣となりました。

しかし世は、下剋上の戦国時代。大内氏は主君の石橋尚義(いしばし ひさよし)を追い出し、塩松の領主となります。石橋氏はその後滅亡。

大内氏、伊達氏から蘆名氏へ乗り換える

その後、大内氏は伊達氏に従属していましたが、大内定綱(おおうち さだつな)の時代に敵である会津の蘆名氏に転じます。

定綱の裏切りに激怒した政宗は、自ら軍を率いて塩松地方へ進軍。先ほど紹介した小手森城を落とし、小浜城を目指しました。

 

しかし定綱は蘆名氏を頼って逃げ出したため、政宗は小浜城の無血入城を果たします。その後政宗は二本松氏(奥州畠山氏)の攻撃拠点として、小浜城に1年間滞在しました。

 

せっかく手に入れた塩松地方ですが、天正19年(1591年)の奥州仕置で秀吉に没収されます。塩松地方は蒲生氏郷に与えられ、家臣の蒲生忠右衛門(がもう ちゅうえもん)が小浜城の城主となったのです。

その後は上杉氏、再び蒲生氏が治め、江戸時代の寛永4年(1627)に廃城となります。

 

小浜城は二本松市の市役所(岩代支所)の裏手にそびえる小高い丘に築かれ、現在の主郭は遊具などを備えた公園となっています。

見どことろは道路に面して残る高石垣で、忠右衛門の時代に築かれたもののようです。

 

【小浜城の基本情報】

所在地:

福島県二本松市小浜下舘

アクセス:

<車>

東北自動車道 二本松I.Cから約15分

<電車>

JR東北本線「二本松駅」から福島交通バス(小浜行き)乗り約23分、終点「岩代支所」下車徒歩約10分

駐車場:

なし

④ 政宗の時代もあった「黒川城(会津若松城/鶴ヶ城)」/福島県会津若松市

鶴ヶ城

出典:PIXTA

鶴ヶ城 桜

出典:PIXTA

鶴ヶ城(会津若松城城)というと、戊辰戦争の舞台という印象が強いですよね。幕末の悲劇白虎隊や、2013年にはNHK大河ドラマ『八重の桜』が放送され、話題になりました。

 

江戸時代から時を遡り、戦国時代。会津を治めていたのは先ほどから名前が出ている、伊達氏と敵対する大名・蘆名氏(あしな)です。

鎌倉時代から400年ほど会津に根を張り、鶴ヶ城の前身「黒川城」も蘆名氏によって築城されたと考えられています。

 

蘆名盛氏(あしな もりうじ)の時代に最盛期を迎え、奥州において伊達氏と肩を並べる有力大名でした。

政宗が蘆名氏を下し、会津を支配

しかし天正17年(1589)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で伊達氏に敗れた蘆名氏は、実父のいる常陸国へ敗走。

政宗は黒川城と会津を手に入れ、山形県、宮城県、福島県の3県をまたぐ広大な領地を手に入れたのです。

 

しかし政宗の侵攻は、天生15年(1587)に秀吉から関東・奥州の大名向けに出されていた、大名同士の私戦謹慎「惣部事令(そうぶじれい)」に反していたため、奥州仕置で秀吉から没収されてしまいます。

そのため秀吉の奥州仕置により、わずか1年半ほどで会津を手放すことになったのです。

蘆名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉氏→再び蒲生氏へ

天下統一した秀吉ですが、奥州には伊達政宗と最上氏、越後には上杉氏、そして徳川家康と、警戒すべき武将たちが残っています。

また東北という未開拓の地であること、仕置きで没収された領地を取り戻そうと大名らが戦を起こす可能性も十分にあったため、会津の領主に誰を据えるかはかなり重要な決断だったといえます。

 

そして指名されたのは、あの織田信長が認めた名将・蒲生氏郷(がもう うじさと)。氏郷の頃に黒川城から「鶴ヶ城(つるがじょう)」と名称が変わり、現在も通称として親しまれています。

しかし氏郷の息子・秀行の代になると領内で内紛が起き、秀吉に力不足と判定された蒲生氏は国替えを命じられます。

 

蒲生氏の代わりに会津を任せられたのは、上杉氏。当主は上杉謙信の息子・上杉景勝です。

しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝は、翌年家康によって米沢城に移封されてしまいます。再び蒲生氏秀行が会津へ戻り、4代目まで城主を務めました。

 

その後は、加藤氏、保科氏、松平氏へ城主が変わり、戊辰戦争へ突入。新政府の猛攻に一か月間も籠城で耐え、落ちることはありませんでした。

明治7年(1874)に石垣のみを残して廃城となりますが、昭和40年に天守閣が再建。現在は鶴ヶ城公園として整備されています。

 

【黒川城(会津若松城/鶴ヶ城)の基本情報】

所在地:

福島県会津若松市追手町1-1

アクセス:

<車>

磐越自動車道 会津若松I.Cより約15分

<電車>

JR会津駅から、まちなか周遊バス「ハイカラさん」または「あかべぇ」に乗車し「鶴ヶ城入口」または「鶴ヶ城三の丸口」下車し徒歩5分

駐車場:

あり/有料/3か所

西出丸駐車場:普200台収容可
東口駐車場:普129台収容可
南口駐車場:普35台収納能

⑤ 12年間過ごした「岩出山城」/宮城県大崎市

岩出山からの景色

撮影:ライターstingray(岩出山城からみる風景)
有備館
鶴ヶ島城でご紹介した通り、秀吉による奥州仕置で政宗は会津や塩松地方、本拠地としていた6郡44万石を手放すことになりました。

代わりに秀吉から与えられたのは、葛西氏と大崎氏の旧領13郡30万石。政宗は岩出山城(いわでやまじょう)へ入城します。

葛西・大崎一揆

なぜ葛西氏と大崎氏の領地が、政宗のものになったのか? それは天正18年(1590)に起こった「葛西・大崎一揆」が関係しています。

葛西氏と大崎氏は、伊達氏と並ぶ有力大名でしたが、奥州仕置で領地を取り上げられ大名としては滅亡しました。

 

代わりに葛西氏と大崎氏の領地を支配したのは、木村吉清(きむら よしきよ)と清久(きよひさ)親子。岩出山城は当時「岩手沢城」と呼ばれており、城主には木村氏の家臣である萩田三右衛門が務めました。

しかし統治方法の不満から、葛西氏や大崎氏の旧家臣たちの不満が爆発し一揆へと発展。秀吉の命を受けた政宗は、乱の鎮圧へ向かいます。

しかしこの一揆、政宗が仕向けたのではないかという疑惑が浮上。秀吉は政宗の弁明を聞き入れ無罪としますが、米沢をはじめ伊達氏の本拠地を減封、さらに岩出山へ移封するなど、実質2回目となる奥州仕置でした。

 

政宗、岩出山城から仙台城へ

それから12年間ほど、仙台城へ入城するまで政宗はこの岩出山で過ごしました。仙台城へ移る際に岩出山城を4男の宗康に引き渡し、岩出山伊達(いわでやまだて)が誕生。仙台藩一門として、岩出山を治めます。

 

岩出山城の麓には、岩出山伊達氏の子弟らの学び舎「有備館(ゆうびかん)」があり、美しい庭園とともに「旧有備館および庭園」の名称で、国の史跡および名称に指定されています。詳しくはこちらの記事をご覧ください!

 

【岩出山城の基本情報】

所在地:

宮城県大崎市岩出山字城山42-2(城山公園)

アクセス:

<バス>

JR陸羽東線「有備館駅」から徒歩約15分

<車>

・仙台駅から約10分

・東北自動車道 古川I.Cから約15分

駐車場:

あり/無料/20台

 

⑥ 野望を秘めた「仙台城」/宮城県仙台市青葉区

仙台城 石垣

出典:写真AC NR1000(仙台城跡の石垣)
仙台城 伊達政宗騎馬像
撮影:編集部

伊達政宗を象徴する城といえば、東北の大都市仙台にある「仙台城(あおばじょう)」。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いから時を待たずに築城をはじめ、慶長7年(1602)に一応の完成をみたといわれています。

戦向きの山城→平山城へ

この時代には珍しい戦闘向きの山城で、仙台城本丸の東側は広瀬川を望む断崖、西側は御裏林(おうらばやし)と呼ばれる山林、南側を竜ノ口谷渓谷(たつのくちけいこうく)があり、天然の要害を巧み利用したつくりです。

関ヶ原の戦いで敵対した上杉氏の脅威もあり(白石城の戦い)、合戦に備えた砦が必要だったため仙台城が築かれたと考えられています。

 

しかし1615年に元号が慶長から「元和(和を元(はじめ)る)」となり、平和な世の中にすると家康が明確に示しました。

時代の流れに合わせて、2代目仙台藩藩主・伊達忠宗(だて ただむね)の時代に、仙台城は山麓に二の丸を増設。二の丸が城の中心となったたため、山城ではなく平山城となります。

 

幕末では奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の盟主として、新政府軍と敵対した仙台藩。しかし仙台城は一度も戦火をみることなく、明治とともに城の役目を終えました。

圧巻の本丸石垣が、仙台城の偉大さを物語る

明治維新、仙台城は明治政府の管轄となります。本丸の建物は取り壊され、二の丸に軍の施設が置かれました。

しかし明治15年(1882)の火災により、建物の大半が焼失してしまったのです。

 

残っていた大手門、脇櫓、巽門(旧国宝)も、太平洋戦争の仙台空襲により焼失。宮城県知事公館の正門(旧仙台城門)は仙台城の城門の一つと伝えられており、大正時代に旧日本陸軍第二師団長官舎の正門として現在地に移築されたようです。

ですがどの城門だったのかは、定かにされていません。

 

現在の仙台城跡には巨大な石垣と、本丸跡の敷地には「大広間」の大きさや間取りを再現した広場があります。

大広間には多くの部屋が配置され、歴代藩主の座する「上段の間」もあったようです。

 

大広間の近くに伊達政宗の騎馬像もあり、夜間はライトアップが実施されます。

敷地内には文部科学省認可の歴史博物館「青葉城資料展示館」があり、伊達家や仙台城に関する資料や模型などを展示。伊達ファンにはぜひ足を運んでいただきたい観光スポットです。

 

【仙台城の基本情報】

所在地:

宮城県仙台市青葉区天守台青葉城址

アクセス:

<バス>

仙台駅西口バスプールより「るーぷる仙台」に乗車訳20分、「仙台城跡」下車徒歩すぐ

<車>

・仙台駅から約10分

・東北自動車道 宮城I.Cから約15分

駐車場:

あり/有料/400台(8:30~17:00※土日祝8:00)

⑦ 晩年を過ごした「若林城」/宮城県仙台市若林区

若林城

若林城 図

政宗の第二の城ともいえる「若林城(わかばやしじょう)」。政宗が晩年を過ごし、政宗の死とともに廃城となった幻の城です。現在は「宮城刑務所」となっており、城址を散策することはかないません。土塁はそのまま残されており、Googleマップで城全体の様子を確認することができます。

政宗「第2の城」

若林城は寛永5年(1628)に造営されました。この頃になると2代目藩主・伊達忠宗が執務を行っており、政宗が仙台城へ赴くのは公的な儀式や催事のときのみ。日常は若林城で過ごしたようです。

若林城は東西に長い長方形で、周囲は高い土塁と一重の堀(水濠)で囲んだ※単郭式(たんかくしき)の平城。仙台城本丸や二の丸の規模に匹敵する広さだったと推測されています。

 

しかし慶長20年(1615)に公布された「※一国一城令」で、なぜ政宗は「城」を造営できたのでしょうか?

城の造営にあたり、政宗は事前に江戸幕府へ申請しています。しかも幕府も「心のままに普請あるべし」と若林城の造営を許可しているのです。伊達政宗、すごいですね!

※一国一城令…ひとつの国にひとつの城のみ所有を許し、それ以外はすべて破却。ただし例外もあり、仙台藩の「白石城」は存続を許されている。
※単郭式…郭は土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。単郭は郭が1つのこと。

政宗が朝鮮から持ち帰ってきたウメの木がある

文禄元年(1592)の文禄の役(ぶんろくのえき)で、朝鮮出兵した政宗が持ち帰ってきたウメの木が城址内にあります。

はじめは仙台城に植えられたそうですが、その後若林城内に植え替えられたそうです。

 

樹齢は220年以上、もしくは360年と推定されています。昭和17年(1942)に「朝鮮ウメ」という名称で、国の天然記念物に指定されました。

 

朝鮮ウメは刑務所内にあるため、一般には非公開となっています。しかし年に1度だけ宮城刑務所で開催される「矯正展」の所内見学ツアーがあり、参加すればみることができます。2019年は10月27日(日)に開催(入場無料)されていますが、2020年の開催情報はまだないようです。

 

【若林城の基本情報】

所在地:

仙台市若林区古城2丁目3

アクセス:

<バス>

仙台駅前から仙台市営バス「薬師堂行」に乗車約17分「南小泉四丁目東」バス停で下車し徒歩約5分

<車>

仙台駅から県道235号経由で約13分

駐車場:

なし

生涯現役、伊達政宗の最後は江戸だった

仙台藩外桜田上屋敷跡

出典:PIXTA

ここまで東北各地にある、伊達政宗ゆかりのお城を紹介してきました。城は南奥州(現在の福島県、宮城県、山形県)を中心に点在しており、現在は「城址」として残されています。

 

ほかにも伊達氏ゆかりのお城があるので、ぜひ下の記事もご覧ください!

仙台城 石垣
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GOGO MIYAGI 編集部
GOGO MIYAGI 編集部

GOGO MIYAGI!運営&記事編集担当。マグロとすんだ餅が好物。宮城にある神社や仏閣、景勝地、B級スポットの発掘に日々没頭中。読者の皆様にわかりやすく、ためになるような記事製作を心掛けています。