伊達政宗ってどんな人?
いまや仙台市の観光名所となっている「仙台城(せんだいじょう)跡」。
およそ420年前の戦国時代末期、奥羽(現在の東北)の戦国武将・伊達政宗(だて まさむね)公が造営したお城です。
仙台城を紹介する前に、まずは政宗公の生涯をざっくりご紹介します。
戦国武将として奥州を駆け抜ける
戦国時代後期の永禄10年(1567)、現在の山形県米沢で生まれた伊達政宗公。
幼少期に天然痘にかかり右目を失明、これが後世に独眼竜と呼ばれる所以となります。
天正12年(1584年)18歳で一族の当主となると、次々と勢力を拡大させていきます。
そして家督相続からわずか5年で、伊達氏の歴史史上最大の領土を得て、※南奥羽(山形県、宮城県、福島県の一部)の覇権を握りました。
その後1590年の小田原合戦を機に、豊臣秀吉、そして徳川家康に服属します。
表向きは天下人の指示に従っていた政宗公ですが、混乱に乗じて領土拡大を図るなど、天下への野心を燃やし続けていました。
江戸時代では、国内統治に長けた名君
江戸時代になると、政宗公は仙台藩62万石を治める初代仙台藩藩主となります。
それまで戦を指揮していた政宗公ですが、政治家としての手腕も備えていました。
城下町の整備や治水工事も行うなど、藩の事業を拡大させていきます。
とくに新田開発に力を注ぎ、江戸が急激な人口増加で米不足になった際は、仙台領の米を江戸に出荷し、江戸の米消費量の3分の1を仙台藩米が賄っていた、という話があるほど。
幕府が開かれたことで江戸の人口増加する、と先を読んでいたからこそ、政宗公はいち早く新田開発に取りかかったのではないか? とも言われています。
現代に政宗公がいたら、すごい経営者になっていたかも…。
戦国時代は武将として、平和になった江戸時代には為政者として、数々の功績を残した政宗公。
寛永13年(1636)政宗公は満70年の生涯を、江戸城下の藩邸で閉じます。隠居することなく、生涯現役を貫きました。
政宗公は「いつ」「なぜ」「この場所に」仙台城を築いたのか?
現在の仙台市青葉区川内にある青葉山(あおばやま)に築かれた「仙台城」。幕末までのおよそ260年余、藩政の中心地として機能していました。
では政宗公は、いつ、なぜ、この場所に仙台城を築こうと決めたのでしょうか? その理由を紐解いていきたいと思います。