“独眼竜”に生涯を捧げた忠臣・片倉小十郎景綱
宮城県の戦国武将といえば、独眼竜の異名で知られる伊達政宗公(だてまさむね)。家督を継ぐやいなや、周辺の奥州大名を次々と屈服させていき南奥州を制圧。
江戸時代には仙台藩初代藩主となり、仙台と東北の発展に貢献しました、
そんな彼を支えた人物こそ、片倉小十郎こと片倉景綱(かたくら かげつな)です。小十郎というのは、片倉家当主に代々受け継がれる名前で、本名は景綱です。
※この記事では小十郎ではなく、景綱公と記します。
政宗公への忠誠ぶりがすごい
景綱公は政宗公が梵天丸だった幼少期から仕え、豊臣秀吉や徳川家康からのスカウトも断り、その生涯をかけて主君に仕えました。
景綱公は、とにかく忠義に篤い人物像で有名です。
政宗公がピンチに陥ると、「我が政宗だ!」と自らを政宗と名乗り囮になったり、主君より先に生まれてくる我が子を殺そうとし、政宗公が慌てて止めに入る…など、数多くの逸話を残しています。
今回はそんな片倉小十郎景綱公にスポットライトを当て、彼の生涯やゆかりのスポットをご紹介します。
片倉小十郎景綱の生涯をザックリ紹介
不遇な生い立ち
景綱公は弘治3年(1557)、現在の山形県米沢市~長井市とされる出羽・置賜郡(おきたまぐん)において、片倉景重(かたくら かげしげ)の次男として誕生しました。
しかし生まれて間もなく、跡取りのいない親戚・藤田家へ養子に出されます。ですが藤田家に嫡男が生まれたため、用済みとなった景綱公は片倉家へ戻されるのです。
両親は早世し、姉の喜多(きた)が親代わりでした。喜多は女性でありながら、父・景重から一通りの教養や剣、薙、刀、弓、軍学を教わり、文武両道に通じていました。
その甲斐あって、伊達家16代当主・伊達輝宗(だて てるむね)により、喜多は※梵天丸(ぼんてんまる)の乳母に任命されます。
※梵天丸…伊達政宗の幼名。
片倉家は伊達家の家臣でしたが、嫡男の傍に仕えられような名門武家ではありません。
まさか姉弟揃って主君の傍で仕えることになろうとは、いったい誰が想像したことでしょう。
政宗公の父に見いだされ、徒小姓となる
人生の転機は、景綱公15歳のときに訪れます。政宗公の父であり、伊達家16代当主・伊達輝宗(だて てるむね)の※徒小姓(かちこしょう)に召し出されることになったのです。
そのきっかけとなった要因は諸説あり、政宗公の乳母を務めていた喜多が景綱公を推したのではないか?という説もあります。
または輝宗公の側近・遠藤基信(えんどうとものぶ)が、喜多の思いを汲み推挙した、とも考えられています。
また景綱公は笛の名手であり、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では、景綱公の笛の音を聴いた輝宗公が召し抱える、という流れで描かれていました。
政宗公の教育係となる
徐々に才覚を認めらていった景綱公は、のちに伊達政宗となる梵天丸(ぼんてんまる)の傅役(もりやく)という教育係を任されます。
梵天丸9歳、景綱公19歳のときです。
伊達政宗公といえば、血気盛んで大胆不敵な行動をする印象ですが、梵天丸だった頃はウジウジした内気な性格だったといいます。
その原因は容姿でした。天然痘を患い、右目が飛び出ている自身の姿にコンプレックスを抱いていたようです。
景綱公はそんな梵天丸を変えようと、自身の命をかけ、飛び出した政宗公の眼球を切り取りました。
刃で主君の体を傷つけるなど恐れ多い……とほかの家臣が手をこまねくなか、景綱公は見事やってのけたのです。
重臣として伊達家に貢献する
その後、政宗公の※近侍となった景綱公は、伊達家の名参謀としてその頭角を現していきます。
その象徴的な出来事が、天正17、18年(1589~1590)の小田原合戦の遅参です。
豊臣秀吉は政宗をはじめとする奥州を武将らに、小田原合戦に参陣するよう呼びかけます。しかし伊達家内では「要求を拒否するか、従うかで意見が割れていたのです。
拒否して秀吉と敵対するか、秀吉に服属するか。迷っていた政宗公は、夜分にこっそりと景綱公の屋敷を訪ねました。
すると景綱公は、秀吉を「ハエ」に例えて、政宗公にこう進言します。
ハエは一度払っても、しつこく何度もやってくる、そして手に負えなくなる、と。
秀吉勢は大軍。一度追い払ってもハエのように何度もやってきて、手に負えなくなる。伊達家が存続するためにも、秀吉に臣従した方がいい、と断言したのです。
政宗公は景綱公の意見に従い、急ぎ箱根を目指しました。引き連れたお供は、景綱公と百騎ほど。
小田原に到着した頃には、開戦から2か月後以上過ぎており、秀吉も激怒したそうです。
「あと少しでも遅かったら、おぬしの首が危なかったぞ」と最終的には政宗公を許します。景綱公の助言がなければ、伊達家の命運も尽きていたかもしれません。
天下人からのスカウトも断る
武将としてはもちろん、軍師や参謀、ときには外交官として活躍した小十郎は、天下人と謁見する機会がありました。
その際に、景綱公は天下人からも一目置かれる存在となります。
まずは、はじめて天下人となった豊臣秀吉。
小田原合戦に参陣しなかった武将に対し、秀吉は領土の没収する「奥州仕置」を実施し、遅参した政宗公も減封(領土を減らされる)の仕置を受けます。
その際、秀吉は「福島三春5万石の大名に取り立てるから、私の直臣にならないか?」と景綱公をスカウトしたのです。
そしてもう一人は、太平の世を築いた天下人・徳川家康。
家康は「江戸に屋敷を与えるから、私の家臣にならないか?」と景綱公をスカウトします。
2人の天下人から熱いオファーをいただくも、政宗公を裏切れないとお断りしたのです。
白石城の城主となる
戦国時代末期の慶長7年(1602年)。景綱公は現在宮城県白石市にある「白石城(しろいしじょう)」を拝領され、城主となります。
政宗公がいる「仙台城」から、車で約45分ほどの場所です。
しかし一国一城令(いっこくいちじょうれい)により、一国(藩)につき一城のみと定められていました。
仙台藩にはすでに「仙台城」があり、本来ならば白石城は廃城となるはずですが、“特例”として存続を許されることになります。
理由には諸説あり、景綱公の功績が認められた、政宗と離れさせるの目的があった……など。
真偽は不明ですが、以降260年余、明治維新まで片倉家の居城となったのは事実です。
景綱公が拝領した当時の石高は、1万3千石、最終的には1万8千石まで加増されました。
小十郎の最後
太平の世がはじまり12年の月日が流れた、元和元年(1615)10月14日。片倉小十郎景綱公は、59歳で生涯を閉じました。
政宗公は自らの愛馬を下賜(かし)、棺を引かせ、長年支えてくれた忠臣の死を悼んだといわれています。
亡骸は現在白石市にある「傑山寺(けっさんじ)」で埋葬されました。遺言に従い、境内にある1本の杉の木を墓標にしたといわれています。
傑山寺については次項でご紹介しているので、ぜひチェックしてみてくださいね!
片倉小十郎景綱ゆかりある6か所を巡る
政宗公に忠誠を尽くし、伊達家を支えた名臣・片倉小十郎景綱公。彼にゆかりのあるスポットが、宮城県南部の白石市内にあります。
① 一国一城令を免れた、景綱公の居城「白石城」
慶長7年(1602)に拝領されてから明治維新までの約260年余り、片倉家の居城として存在した「白石城(しろいしじょう)」。
明治7年(1874)に取り壊されてしまいますが、平成7年(1995)に復元されました。全国的にも少ない木造復元です。
写真上は、3階建ての三階櫓(天守閣)から、城下の街並みを見下ろした景色。周囲の風景は変わりましたが、景綱公もみていた景色だと思うと、歴史のロマンを感じます。
■白石城の基本情報
所在地:
〒989-0251 宮城県白石市益岡町1‐16
営業時間:
[4月~10月] 9:0017:00
[11月~3月] 9:00~16:00
※12月28日~12月31日は休館日
料金:
一般400円、小・中・高校生200円、未就学児童無料
アクセス:
・東北新幹線「白石蔵王駅」より車で約5分
・東北本線「白石駅」より徒歩約10分
※各駅構内にある白石市観光案内所にレンタルサイクルあり
駐車場:
なし
「城下広場駐車場」「益岡公園駐車場」など周辺の駐車場をご利用ください。
② 政宗公と景綱公が祀られている「神明社」
白石城に隣接する「神明社」。平安時代初期にあたる大同2年(807)に創建され、もともとは白石市でない場所に鎮座していました。
しかし明治33年(1900)にこの地へと移され、現在に至ります。
天照大御神を主祭神としており、伊達政宗公と片倉小十郎景綱公が合祀されています。代々片倉家の臣下が宮司を務めているそうです。
■神明社の基本情報
所在地:
〒989-0251 宮城県白石市益岡町1‐17
アクセス:
・東北新幹線「白石蔵王駅」より車で約5分
・東北本線「白石駅」より徒歩約10分
※各駅構内にある白石市観光案内所にレンタルサイクルあり
駐車場:
なし
「城下広場駐車場」「益岡公園駐車場」など周辺の駐車場をご利用ください。
③ 武士の暮らしを感じる「片倉家武家屋敷(旧小関家)」
白石城の北側、三の丸外堀にあたる沢端川(さわばたがわ)沿いに建つ、旧小関家の武家屋敷です。
旧小関家は、片倉家の奥方用心として仕えていました。
屋敷は鬱蒼とした緑に覆われ、正面と側面には清らかな水路がめぐる、風情ある外観も魅力の1つです。中を見学することができ、当時下級武士らの慎ましい暮らしぶりを感じられます。
■片倉家武家屋敷の基本情報
所在地:
〒989-0251 宮城県白石市西益岡町6‐52
アクセス:
・東北新幹線「白石蔵王駅」より車で約5分
・東北本線「白石駅」より徒歩約10分
※各駅構内にある白石市観光案内所にレンタルサイクルあり
駐車場:
なし
「城下広場駐車場」「益岡公園駐車場」など周辺の駐車場をご利用ください。
④ 白石城城主が眠る「片倉家歴代廟所」
白石城から車で約5分ほど、杉の老木が生い茂る愛宕山(あたごやま)の麓にある「片倉家歴代廟所」。御廟所の床には石畳が敷かれ、阿弥陀如来座像の石像10体が横一列に並んでいます。
ここには歴代の白石城城主が葬られており、白石城3代城主・片倉景長(かげなが)がつくらせました。
景綱公の遺骨は傑山寺に安置されていたため、重長公は改葬(遺骨を別の墓に移して供養すること)という形で、この御廟所に移されました。
■片倉家御廟所の基本情報
所在地:
〒989-0231 宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山
アクセス:
・JR東北本線「白石駅」から徒歩約20分、もしくはタクシーで約5分
・JR東北本線「白石駅」から市民バス「きゃっするくん(小原線)」・江志前・上戸沢行きに乗車約10分、「滝下」下車
※土日運休/市民バスの時刻表はこちら
駐車場:
あり/無料
⑤ 景綱公の姉が眠る「喜多の墓」
先ほどご紹介した片倉家歴代廟所のある、愛宕山の一角に眠る景綱公の姉「喜多(きた)の墓」。
父は伊達家きっても猛将・鬼庭左月。その後母親が片倉景重と結婚し、景綱公と異父姉弟となったのです。
梵天丸の保育・教育係を務め、成長後には政宗公の正室・愛姫(めごひめ)付きとなりました。
戦国武将としての政宗公の素地・人格形成に強い影響を与えた女性で、天下人・豊臣秀吉からも「※少納言」と褒め称えられたと言われています。
晩年は白石市に落ち着き、慶長15年(1610)72歳でその生涯を閉じました。
■喜多の墓の基本情報
所在地:
〒989-0231 宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山
アクセス:
・JR東北本線「白石駅」から徒歩約20分、もしくはタクシーで約5分
・JR東北本線「白石駅」から市民バス「きゃっするくん(小原線)」・江志前・上戸沢行きに乗車約10分、「滝下」下車
※土日運休/市民バスの時刻表はこちら
駐車場:
あり/無料
⑥ 景綱公の墓標がある「常英山 傑山寺」
「常英山 傑山寺(じょうえいざん けっさんじ)」は、白石城から1km(徒歩約15分)離れた場所にあります。
景綱公が片倉家と菩提寺として、慶長13年(1608)に創建しました。
境内には景綱公の墓標と伝わる、樹齢約400年の一本杉があり、これは墓を暴かれないようにあえて墓石を建てなかった、と言われています。
ほかにも※初代・谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)の墓や、北海道松前城主・松前慶広(まつまえ よしひろ)の5男・安広とその子、広国の墓があります。
※初代・谷風梶之助……江戸時代の大相撲力士で、最高位は大関。全盛期であった享保年間には、9年間無敗という記録を出し、大関が最高位であった時代に「最強の大関」としてその名を遺した。
本名は鈴木善十郎。蔵王町で生まれ、その後白石市で育つ。片倉家、松平家のお抱え力士となる。
■常英山 傑山寺の基本情報
所在地:
〒989-0248 宮城県白石市南町2丁目7-20
アクセス:
JR東北本線「白石駅」もしくは「白石蔵王駅」から徒歩約20分、もしくはタクシーで約5分
駐車場:
あり/無料
景綱公なくして、独眼竜は存在しなかった
天下人から一目置かれながらも、ただ一人の主君・伊達政宗に生涯忠誠を貫いた片倉小十郎景綱。そして政宗公に保育・養育も携わった、景綱公の姉・喜多。
この片倉姉弟なくして、のちの独眼竜・伊達政宗の存在はなかったのかもしれませんね。縁とは不思議なものです。