【松森城(鶴ヶ城公園)】城主は伊達家ゆかりの一族!仙台のお城巡り②

2020/09/14 更新

仙台駅から車で約25分、中世に陸奥国の国府が置かれた多賀城市に近い場所にある「松森城跡」。南北朝時代~戦国時代にかけて、仙台市一帯に勢力を張った国分氏の居城です。現在は跡地で、公園になっています。そんな国分氏の歴史や、松森城についてご紹介。

アイキャッチ画像出典:撮影ライターstingray
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松森城ってどんな城?

松森城と桜

撮影:筆者

松森城は、いつ、誰が、どのような目的で築城したのか、まだ明らかにされていません。史料によると1353年の※南北朝時代(1336年~1392年)に、松森城の城主として国分氏(こくぶんし)の名が記されています。

南北朝時代(1336~1392)…鎌倉幕府崩壊後、天皇家が分裂した時代。室町幕府(足利尊氏)が擁護する天皇(北朝)と、吉野に逃亡した後醍醐天皇側(南朝)。

城主の国分氏って何者?

国分氏は陸奥国分寺(現在の仙台市若林区木ノ下)付近から宮城郡南部にまで、勢力を張っていた武士の一族。

伊達政宗(だてまさむね)が築城した「仙台城」の前身ともいわれる「千代城(せんだいじょう)」を居城にするなど、のちに伊達氏と深く関わる一族です。(詳しくは記事後半でご紹介します)。

 

そんな国分氏のライバル的な存在だったのが、留守氏(るすし)。留守氏は1189年の※奥州合戦以降、陸奥国(奥州)の※留守職を務めた伊沢家景(いさわ いえかげ)を家祖とする一族。

家景の息子・家元以降に留守氏と称するようになり、岩切城(現在の仙台市宮城野区岩切)を拠点に現在の利府、多賀城一帯を所領としていました。

※奥州合戦……鎌倉幕府創設期の源頼朝と、陸奥平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った奥州藤原氏の戦い。源頼朝が勝利する。
※留守職……奥州藤原氏の滅亡後、陸奥国国府(多賀城)にあった統治機関の一つ。任務は民事行政の全般。

国分氏と留守氏の争い

松森城の歴史案内板

撮影:筆者

国分氏と留守氏のライバル関係は、南北朝時代に起こった”ある戦い”からはじまりました。まずは切っても切り離せない、国分氏と留守氏の闘争歴史をみていきましょう!

① 観応の擾乱……勝者、国分氏

南北朝時代に起こった観応の擾乱(かんのうのじょうらん)とは、足利政権(室町幕府)の内紛によって起こった戦乱のこと。京都を中心とする内紛が、遠く離れた奥州(陸奥国)にいる国分氏と留守氏にどう影響するのか? その前にまずは、南北朝時代の情勢について知っておく必要があります。

 

■皇室が分断された「南北朝時代」

鎌倉幕府後半から、天皇家は「大覚寺統(だいかくじとう)」と「持明院統(じみょういんとう)」という2つの皇統(天皇の血筋)が立つ”※両統迭立(りょうとうてつりつ)”状態でした。

※両統迭立…一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態。

しかしこの交代制を許せなかった、大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が挙兵。皇位継承に介入できる唯一の存在、鎌倉幕府を滅ぼします。

交代制を廃止し即位した後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う”建武の新政(けんむのしんせい)”をスタート。

しかし天皇や貴族が優先される政治に、倒幕に貢献した武士たちは不信感を募らせます。そして後に室町幕府を開く足利尊氏(あしかがたかうじ)が、ついに後醍醐天皇に反旗を翻します。

 

尊氏によって京都を追い出された後醍醐天皇は、吉野へ逃亡。尊氏は持明院統の天皇を擁立し、1336年室町幕府を成立させました。幕府側を北朝、吉野へ逃亡した後醍醐天皇側を南朝と呼びます。

 

■室町幕府も2つに分裂「観応の擾乱」

1339年に後醍醐天皇が崩御し、幕府側(北朝)の優勢が決定的となりましたが、今度は幕府内で兄・足利尊氏と弟・直義(ただよし)の兄弟喧嘩が起こります。観応の擾乱のはじまりです。

しかもあろうことか、直義は足利氏を最も憎んでいる南朝へ寝返ります。一度は兄弟間で和平交渉が行われたものの、最終的には直義が謎の死を遂げ、観応の擾乱は終結しました。

 

■奥州の武士も2つに分裂

この兄弟喧嘩に国分氏と留守氏を巻き込んだのは、幕府側が派遣した2人の※奥州管領、吉良定貞家(きらさだいえ)と畠山国氏(はたけやまくにうじ)という人物。吉良氏は直義派、畠山氏は尊氏派でした。

※奥州管領(おうしゅうかんれい)…南北朝~室町幕府における、幕府の陸奥国の統治機関。軍事指揮権と行政権をもつ。

観応の擾乱が引き起こした「岩切城の戦い」

当時は戦国大名のように、自前の常備軍などはもっていません。ではどうやって戦をするのかというと、奥州管領の権限で奥州の武士たちを動員するのです。

 

国分氏は直義派の吉良氏に、留守氏は尊氏派の畠山氏に付き、「岩切城の戦い」が起こりました。留守氏の居城「岩切城」に立てこもった畠山氏を、吉良氏と国分氏が襲撃、陥落させます。

畠山氏は自害し、直義派の国分氏が勝利。敗者となった留守氏は所領を没収され、その所領は国分氏のものになりました。この抗争をきっかけとなり、国分氏と留守氏は陸奥国び支配権をめぐり長きに渡って争い続けることになります。

 

しかし戦国時代に入ると、伊達氏の勢力が進出。国分氏、留守氏も伊達氏の強い影響下に置かれることになりますが、同格の領主として伊達氏の傘下に属するまで抗争は続きました。

② 天文の乱……勝者、留守氏

天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年(1542)~17年(1548)にわたり続いた伊達氏の親子喧嘩(内乱)です。

14代当主・伊達稙宗(たねむね)と、息子の晴宗(はるむね)の親子が対立し、最終的には室町幕府第13代将軍・足利義輝から和睦の命令が下り、稙宗が晴宗に家督を譲る形で幕を下ろしました。

 

このとき国分氏は稙宗側に、留守氏は晴宗側に付きました。伊達氏の親子喧嘩には終止符が打たれたものの、国分氏と留守氏の戦いに決定的な勝敗はつかず……。

しかし勝者側についた留守氏は、晴宗との緊密な関係を結ぶことに成功。大名化への道を進むことになります。

国分氏、伊達政宗を怒らせる

松森城と桜と街並みに

撮影:筆者

天正5年(1577)、国分氏の当主・国分盛氏(もりうじ)が跡継ぎ無くして死去。すると家臣の堀江掃部は、伊達氏15代当主・伊達晴宗の5男、伊達政重(だてまさしげ)を※代官として迎えます。

つまり国分氏の人間ではなく、よそ者である伊達氏の人間がトップとして仕切るわけです。なので当然、国分氏の家臣らは猛反発しました。しかし結果的に政重は国分氏の養子となり、名を国分盛重(こくぶんもりしげ)と改め当主を継ぐのです。

※代官…領主の代理をするつかさどった者、もしくは地位。

そしてついに天正15年(1587年)に、反盛重派の家臣との間に内紛が勃発。盛重は堀江長門(反盛重派の代表格)によって追い詰められますが、政重の兄であり岩切城の城主・※留守政景(るすまさかげ)の助力もあって、事なきを得ます。

※留守政景(伊達 政景)…伊達晴宗の3男。父の政治戦略により、留守氏へ養子に出される。留守氏18代当主。

それでも反盛重派の不満は収まらず、伊達氏17代当主・伊達政宗(だてまさむね)が、ついに介入を決めます。しかも「盛重の政治に問題があるから、内紛が起こる」として、武力で盛重を滅ぼそうとしたのです。

これに驚いた盛重は、米沢(現在の山形県米沢市)へ行き政宗に謝罪。政宗は国分攻めを取りやめましたが、松森城を含む国分領や家臣らは政宗直轄となり”国分衆”と呼ばれました。

国分氏の滅亡

松森城と街並み

撮影:筆者

天正18年(1590年)の小田原合戦を機に、伊達政宗は豊臣秀吉に服従を決意。そして合戦後に日本統一を成し遂げた秀吉は、小田原合戦に参加しなかった奥州の大名たちの領土を減封(一部削減)する「奥州仕置き」を実施します。

合戦に参加したものの出遅れた伊達氏をはじめ、留守氏も秀吉に領地を没収されてしまいます(この頃の留守氏は正式に伊達一門に加わっていない)。奥州の大名として処分を受けた留守氏に対し、国分氏は伊達氏の“家臣”であるとみなされ、仕置きの対象になりませんでした。

その後の松森城は?

松森城と桜と花見

撮影:筆者

そして慶長元年(1596年)、国分盛重は伊達氏から※出奔し、姉の婚家である常陸国(茨城県)の佐竹氏に身を寄せたことにより、大名としての国分氏は滅亡することになります。

※出奔……逃げ出して行方をくらますこと。

その後、伊達氏は松森城に重臣を送って城を改修し、宮城郡北部の大崎氏や黒川氏に対する軍事的備えの城としました。江戸時代には、仙台藩の正月行事である「野初(のぞめ)」といわれる狩猟や軍事の訓練場として使われていたとか。

松森城の規模は?

松森城

撮影:筆者

松森城は標高15~85mの丘陵に立地しており、面積は約202,700平方メートルの山城です。現在は鶴ヶ城公園として一部整備されています。

※『仙台領古城書上』によりますと、本丸の大きさは東西45※間の南北16間、二の丸の大きさは東西16間の南北16間。また、南側に幅15間,長さ140間の堀があったと記されています。

※『仙台領古城書上』…旧仙台領の城を網羅した文献。仙台藩が領内の旧城をリストアップし、幕府に提出したもの。
※間(けん)…尺の6倍。1尺はメ−トル法で約30.3cm

松森城の鑑賞ポイント

松本城 城下

撮影:筆者

松森城跡は本丸跡が鶴ヶ城公園となっており、南側の丘陵の登り口が大手(城の表側)にあたります。筆者も実際に登ってみましたが、けっこう高さがあり息が上がりました。

丘陵頂部の東側が本丸で、西側が二の丸。本丸は標高約85mの丘陵頂部に平場が大きく造成されています。四方に※曲輪(くるわ)があり、西に延びる曲輪は二の丸まで続いていました。

※曲輪……城の内側や外側を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称のこと。

翼を広げた鶴のような城だった

本丸と二の丸の位置が、鶴が翼を広げた三日月形のように見える”鶴翼の陣”に似ていることから、別名「鶴ヶ城」ともいわれています。

鶴ヶ城といえば「会津若松城」が有名ですが、仙台の鶴ヶ城といえば松森城ですね。国分重盛が城主だったころ、二の丸には家臣・高平大学が居住し「乙森城」と称したといわれています。

松森城は4月に行くのがベスト

春の松森城

撮影:筆者

跡地となった松森城にはたくさんの桜が植えられており、本丸があった頂上では花見を楽しめます。せっかく足を運ぶなら、桜咲く4月がオススメです。

松森城の基本情報

所在地:

〒981-3111 仙台市泉区松森内町

営業時間:

24時間

料金:

無料

アクセス:

<電車・バス>

地下鉄南北線「泉中央駅」から宮城交通バス「鶴が丘ニュータウン行き」に乗車約11分「松森市民センター前」で下車し徒歩約10分

<車>

仙台駅から車で約20分

駐車場:

無料/18台

松森城の近くにある「岩切城」

岩切城 本丸

▲現在の岩切城跡

松森城から約1.8km(車で約16分)のところに「岩切城(いわきりじょう)」があります。南北朝時代、室町時代、戦国時代にかけて留守氏の居城であり、一度国分氏に陥落させられた経緯をもつ城です。

 

戦国時代末期になると、伊達政宗が東北地方南部を征服。この時に政宗は、叔父の留守政景(伊達政景)を岩切城主にしています。その後政景は元亀年間(1570年~1573年)に利府城に移り住むことになり、岩切城は廃城となりました。

昭和57年(1982年)国の史跡に指定。岩切城跡は標高約106mの高森山にあり、周辺は高森山公園として整備されています。こちらも桜の名所として有名です。

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

 

所在地:
〒983-0821 仙台市宮城野区岩切入山
営業時間:
24時間
料金:
無料
アクセス:

<電車>
JR東北本線「岩切駅」より徒歩約30分

<車>
松森城から車で約10分
駐車場:
無料/5台

松森城周辺のおすすめランチ2選

松森城周辺でランチを楽しめるお店がありますので、ご紹介します。

Soba Dining 蕎花(そばだいにんぐ きょうか)

洋菓子店、洋食レストランのような外観が目を引くお店。おそば屋さんのイメージで訪れると、そのギャップに驚くかもしれません。

蕎麦の単品注文OK。天ぷらやとろろなどがセットになった「そば三昧」がオススメ。電話予約可能です。

 

所在地:

〒981-3109 仙台市泉区鶴が丘1-37-3

営業時間:

11:30~15:00

17:30~20:00

定休日:

水曜日(祝日は営業)

問い合わせ:

022-773-7371

駐車場:

無料/10台

Soba Dining 蕎花の詳細ページはこちら

清水屋 泉バイパス店(しみずや いずみばいぱすてん)

清水屋さんは地元民なら誰もが知ってる、昔ながらの大衆食堂です。素朴で懐かしい味が特徴。メニューが豊富で、そばやラーメンにカツ丼などのセット物が人気です。

筆者は、えび天ラーメンがお気に入り!

 

所在地:

〒981-3111 仙台市泉区松森中道34-1

営業時間:

11:00~20:00

定休日:

火曜日

お問い合わせ:

022-371-8787

駐車場:

無料/3台

清水屋 泉バイパス店の詳細ページはこちら

松森城跡、そこは別世界!

松森城 公園

松森城跡の頂上からみえる景観は、まるで別の世界に来たような気分になります。宮城県には、まだまだたくさんの城跡が残っていますので、お城好きな方にはたまらないでしょう。城跡巡りの旅に宮城へ足を運んでみては、いかがでしょうか。

 

松森城 公園
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stingray
stingray

札幌出身で趣味はギター。前職の転勤で仙台に移り住み、気が付いたらもう30年になります。仙台は海の幸や山の幸も美味しく、とても暮らしやすい所です。そんな仙台の魅力や地元ならではの情報をお届け致します。