国分氏と留守氏の争い
国分氏と留守氏のライバル関係は、南北朝時代に起こった”ある戦い”からはじまりました。
まずは切っても切り離せない、国分氏と留守氏の闘争歴史をみていきましょう!
① 観応の擾乱……勝者、国分氏
南北朝時代に起こった観応の擾乱(かんのうのじょうらん)とは、足利政権(室町幕府)の内紛によって起こった戦乱のこと。
京都を中心とする内紛が、遠く離れた奥州(陸奥国)にいる国分氏と留守氏にどう影響するのか? そ
の前にまずは、南北朝時代の情勢について知っておく必要があります。
■皇室が分断された「南北朝時代」
鎌倉幕府後半から、天皇家は「大覚寺統(だいかくじとう)」と「持明院統(じみょういんとう)」という2つの皇統(天皇の血筋)が立つ”※両統迭立(りょうとうてつりつ)”状態でした。
しかしこの交代制を許せなかった、大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が挙兵。
皇位継承に介入できる唯一の存在、鎌倉幕府を滅ぼします。
交代制を廃止し即位した後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う”建武の新政(けんむのしんせい)”をスタート。
しかし天皇や貴族が優先される政治に、倒幕に貢献した武士たちは不信感を募らせます。
そして後に室町幕府を開く足利尊氏(あしかがたかうじ)が、ついに後醍醐天皇に反旗を翻します。
尊氏によって京都を追い出された後醍醐天皇は、吉野へ逃亡。尊氏は持明院統の天皇を擁立し、1336年室町幕府を成立させました。
幕府側を北朝、吉野へ逃亡した後醍醐天皇側を南朝と呼びます。
■室町幕府も2つに分裂「観応の擾乱」
1339年に後醍醐天皇が崩御し、幕府側(北朝)の優勢が決定的となりました。
しかし今度は幕府内で兄・足利尊氏と弟・直義(ただよし)の兄弟喧嘩が起こります。観応の擾乱のはじまりです。
しかもあろうことか、直義は足利氏を最も憎んでいる南朝へ寝返ります。
一度は兄弟間で和平交渉が行われたものの、最終的には直義が謎の死を遂げ、観応の擾乱は終結しました。
■奥州の武士も2つに分裂
この兄弟喧嘩に国分氏と留守氏を巻き込んだのは、幕府側が派遣した2人の※奥州管領、吉良定貞家(きらさだいえ)と畠山国氏(はたけやまくにうじ)という人物。
吉良氏は直義派、畠山氏は尊氏派でした。
観応の擾乱が引き起こした「岩切城の戦い」
当時は戦国大名のように、自前の常備軍などはもっていません。
ではどうやって戦をするのかというと、奥州管領の権限で奥州の武士たちを動員するのです。
国分氏は直義派の吉良氏に、留守氏は尊氏派の畠山氏に付き、「岩切城の戦い」が起こりました。
留守氏の居城「岩切城」に立てこもった畠山氏を、吉良氏と国分氏が襲撃、陥落させます。
畠山氏は自害し、直義派の国分氏が勝利。敗者となった留守氏は所領を没収され、その所領は国分氏のものになりました。
この抗争をきっかけとなり、国分氏と留守氏は陸奥国び支配権をめぐり長きに渡って争い続けることになります。
しかし戦国時代に入ると、伊達氏の勢力が進出。
国分氏、留守氏も伊達氏の強い影響下に置かれることになりますが、同格の領主として伊達氏の傘下に属するまで抗争は続きました。
② 天文の乱……勝者、留守氏
天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年(1542)~17年(1548)にわたり続いた伊達氏の親子喧嘩(内乱)です。
14代当主・伊達稙宗(たねむね)と、息子の晴宗(はるむね)の親子が対立。
最終的には室町幕府第13代将軍・足利義輝から和睦の命令が下り、稙宗が晴宗に家督を譲る形で幕を下ろしました。
このとき国分氏は稙宗側に、留守氏は晴宗側に付きました。
伊達氏の親子喧嘩には終止符が打たれたものの、国分氏と留守氏の戦いに決定的な勝敗はつかず……。
しかし勝者側についた留守氏は、晴宗との緊密な関係を結ぶことに成功。大名化への道を進むことになります。
国分氏、伊達政宗を怒らせる
天正5年(1577)、国分氏の当主・国分盛氏(もりうじ)が跡継ぎ無くして死去。
すると家臣の堀江掃部は、伊達氏15代当主・伊達晴宗の5男、伊達政重(だてまさしげ)を※代官として迎えます。
つまり国分氏の人間ではなく、よそ者である伊達氏の人間がトップとして仕切るわけです。
なので当然、国分氏の家臣らは猛反発しました。
しかし結果的に政重は国分氏の養子となり、名を国分盛重(こくぶんもりしげ)と改め当主を継ぐのです。
そしてついに天正15年(1587年)に、反盛重派の家臣との間に内紛が勃発。
盛重は堀江長門(反盛重派の代表格)によって追いつめられますが、政重の兄であり岩切城の城主・※留守政景(るすまさかげ)の助力もあり、事なきを得ます。
それでも反盛重派の不満は収まらず、伊達氏17代当主・伊達政宗(だてまさむね)が、ついに介入を決めます。
しかも「盛重の政治に問題があるから、内紛が起こる」として、武力で盛重を滅ぼそうとしたのです。
これに驚いた盛重は、米沢(現在の山形県米沢市)へ行き政宗に謝罪。
政宗は国分攻めを取りやめましたが、松森城を含む国分領や家臣らは政宗直轄となり”国分衆”と呼ばれました。
国分氏の滅亡
天正18年(1590年)の小田原合戦を機に、伊達政宗は豊臣秀吉に服従を決意。
そして合戦後に日本統一を成し遂げた秀吉は、小田原合戦に参加しなかった奥州の大名たちの領土を減封(一部削減)する「奥州仕置き」を実施します。
合戦に参加したものの出遅れた伊達氏をはじめ、留守氏も秀吉に領地を没収されてしまいます(この頃の留守氏は正式に伊達一門に加わっていない)。
奥州の大名として処分を受けた留守氏に対し、国分氏は伊達氏の“家臣”であるとみなされ、仕置きの対象になりませんでした。
その後の松森城は?
そして慶長元年(1596年)、国分盛重は伊達氏から※出奔し、姉の婚家である常陸国(茨城県)の佐竹氏に身を寄せたことにより、大名としての国分氏は滅亡することになります。
その後、伊達氏は松森城に重臣を送って城を改修し、宮城郡北部の大崎氏や黒川氏に対する軍事的備えの城としました。
江戸時代には、仙台藩の正月行事である「野初(のぞめ)」といわれる狩猟や軍事の訓練場として使われていたとか。
松森城の規模は?
松森城は標高15~85mの丘陵に立地しており、面積は約202,700平方メートルの山城です。
現在は鶴ヶ城公園として一部整備されています。
※『仙台領古城書上』によりますと、本丸の大きさは東西45※間の南北16間、二の丸の大きさは東西16間の南北16間。また、南側に幅15間、長さ140間の堀があったと記されています。
松森城の鑑賞ポイント
松森城跡は本丸跡が鶴ヶ城公園となっており、南側の丘陵の登り口が大手(城の表側)にあたります。
筆者も実際に登ってみましたが、けっこう高さがあり息が上がりました。
丘陵頂部の東側が本丸で、西側が二の丸。本丸は標高約85mの丘陵頂部に平場が大きく造成されています。
四方に※曲輪(くるわ)があり、西に延びる曲輪は二の丸まで続いていました。
翼を広げた鶴のような城だった
本丸と二の丸の位置が、鶴が翼を広げた三日月形のように見える”鶴翼の陣”に似ていることから、別名「鶴ヶ城」ともいわれています。
鶴ヶ城といえば「会津若松城」が有名ですが、仙台の鶴ヶ城といえば松森城ですね。
国分重盛が城主だったころ、二の丸には家臣・高平大学が居住し「乙森城」と称したといわれています。