若林城跡はどこにあるの?
仙台駅から車で約10分、南東側へ約3kmほど行った仙台市若林区古城にあります。
若林城跡は「宮城刑務所」となっており、入城できません。
城跡の北側に「若林城跡」と刻まれた石柱と、若林城の説明が記載されたパネルが設置されています。
また外側から土塁と堀がみえ、城跡の痕跡を確認できます。
伊達政宗以前の歴史
古代から仙台地方の中心地だった?
若林城のある若林区内には、4~5世紀に造られたとされる仙台市最大の※「遠見塚古墳(とおみづかこふん)」があります。
古墳はかつて、この地域を支配していた地方豪族のものと思われ、古代から人々が定住し集落を形成していたことがわかる遺跡です。
また奈良時代には、若林区に陸奥国分寺(聖武天皇の発願によって建立された※国分寺の1つ)や国分尼寺が造営されました。
これらのことを踏まえても、若林区一帯は古から仙台地方の中心地であったのではないかと考えられています。
国分氏の古城があった?
戦国時代には入ると、国分氏(こくぶんし)という武士の一族が台頭し、若林区一帯を治めます。
若林区には国分氏に関連する城館が複数あったとされており、史料にもその存在が記されていました。
たとえば延宝年間(1673~1681)の『仙台領古城書立之覚』には、付近に2つの古城があったと記されています。
また元禄・享保年間(1688~1736)の『東奥老士夜話(とうおうろうしやわ)』には、若林城は2つの古城のうちいずれかの場所に築かれた、とも記されています。
とはいえ史料が乏しく、国分氏に関連する古城の存在は明らかにされていません。
国分氏に関しては、こちらの記事をぜひご覧ください。
伊達政宗の若林城
やがて国分氏は伊達家の配下に入り、時代は後に”太平の世”と呼ばれる江戸時代へ。若林区は仙台藩の一部として、藩主・伊達家の統治下に置かれます。
伊達政宗の生前
仙台藩初代藩主・伊達政宗は、慶長5年(1601)に仙台城(青葉城)を築城し、城下町をつくりました。
そして時は流れ、仙台城築城から30年後。
藩政の執務はすでに息子の2代目・忠宗に引き継いでおり、仙台城へ赴く機会が減っていた政宗公は、平地への居館造営を計画します。
こうして寛永4年(1627)に若林城の築城が開始され、1628年(寛永5年)に完成。
さらに城の周辺には町奉行が置かれ、侍屋敷と町人が住む屋敷も配置します。
また家臣には、仙台城下と別に若林城下に屋敷を割り当てるなどし、政宗公は仙台城下とは異なる”第二の城”と城下町をつくり上げていったのです。
政宗公は若林城でおよそ8年の時を過ごし、寛永13年(1636)に江戸で亡くなります。
そして政宗公の死とともに、城内の建物は仙台城の二の丸に移築され、若林城は廃城。家臣も若林の屋敷を引き払い城下町も廃されました。
伊達政宗の遺言
政宗公は病をおして江戸に行く際、「館の西南に杉を植え、城の周りの堀一重を残してそのほかは田畑とせよ」と命じました。
政宗公が死を予期して発言した思われる言葉で、事実その言葉が遺言となります。
遺言に従い跡地となった若林城には、仙台藩の農園が設けられました。
伊達政宗死後の若林城
廃城後の若林城跡は、「若林古城」「小泉古城」「古城(ふるじろ)」とさまざまな呼ばれ方がありますが、その名称は現在も仙台市若林区内の住所地名に残っています。
ちなみに小泉は、松島の小泉と区別するために「南小泉」と名付けられました。
跡地となった若林城は、仙台藩の若林薬園として活用され、人参などの薬草が栽培されていたようです。
明治になると警視庁がこの地を買い上げ、宮城集治監を設置。宮城監獄を経て、大正11年(1922)に現在の宮城刑務所となりました。
若林城跡は今どうなってるの?
21世紀の現在は、「宮城刑務所」となっている若林城跡。土塁はそのままで、堀は一部が埋め立てられていますが大部分は残っています。
しかも驚くべきことに、18世紀末に記された仙台城下絵図に記された若林城跡と現在の写真とをみくらべると、形がほとんど同じ! およそ300年に渡りその姿が保たれているのがわかります。