目次
仙台城(青葉城)以外の仙台のお城を巡る
宮城県の城、仙台の城と聞いて、真っ先に思い浮かぶのはやはり「仙台城(青葉城)」ではないでしょうか。
仙台城は仙台藩初代藩主であり、独眼竜の異名で知られる伊達政宗公(だてまさむね)が築いたお城です。
現在は跡地となっており「青葉山公園」として整備・保存されています。
しかし仙台市にあるお城は、なにも仙台城だけではありません!
この記事では「仙台のお城跡めぐり」をテーマとし、仙台城以外のお城にスポットライトを当て、現地を訪ねた筆者が現在の姿とともにご紹介します。
今回は、政宗公が晩年を過ごした「若林城」
今回は江戸時代、仙台市若林区古城にあったとされる「若林城(わかばやしじょう)」。
伊達政宗が晩年の多くを過ごし、政宗公の死とともに廃城となった幻のお城です。
NHKの人気旅番組『ブラタモリ』でも紹介され、話題になりました。
今回はそんな若林城の築城から廃城、そして現在の若林城跡をご紹介します。
若林城って、どんなお城?
政宗公が晩年を過ごしたお城
若林城は、伊達政宗公が寛永5年(1628)に造営した城館です。
寛永13年(1636)までの約8年間、晩年の政宗公が日常を過ごした居城とされています。
この頃政宗公が仙台城へ赴くのは、公的な儀式や催事の時のみで、仙台城では2代目藩主・伊達忠宗(ただむね)が執務を行っていました。
寛永13年(1636)に政宗公が亡くなると、若林城は解体され、仙台城二の丸に移築されます。
政宗公の遺言により若林城は堀のみが残され、現在その姿形をみることはできません。
仙台城に次ぐ、立派なお城だった
若林城は東西に長い長方形で、周囲を高い土塁と一重の堀(水濠)で囲んだ※単郭式(たんかくしき)の平城でした。
土塁の高さは5m前後あったとされ、外側には幅25mほどの水堀をめぐらせていました。
堀跡を含めた城の規模は東西約420m、南北約350m。土塁の内側は東西250m、南北200mあり、仙台城本丸や二の丸の規模に匹敵する広さがあったと推測されています。
土塁と堀まであわせると、敷地面積は128,000平方メートル。東京ドームに換算すると約2.7個分の広さになります。
あれ? でも変ですよね。江戸幕府は慶長20年(1615)に、居城以外のすべての城を破却させる「一国一城令」を公布しています。
仙台藩にはすでに仙台城(青葉城)があるため、「城」の建設は不可能なはず……。
しかし若林城は造営されました。一体なぜなのでしょうか?
幕府公認の「ご隠居城」
実は政宗公、若林城を「自分用の隠居所屋敷」として、江戸幕府に建設の許可を申請していました。
一国一城令の世の中で「城」の築城を申請できるはずがなく、「屋敷」として申請するのは当然の対応ではありますが……。
しかし「屋敷」の実質は、堀と土塁をめぐらせた「城」。幕府にバレたらまずいのでは……?
と思いますが、政宗公は偽装して「屋敷」と称したわけではなかったようです。
しかも幕府は内実を承知していたようで、「心のままに普請あるべし」と若林城の造営を許可します。恐るべし、伊達政宗公。
また若林城の周囲には、家臣の屋敷や町屋敷、町奉行も置かれ、城下町の観があったようです。
実際に家臣の屋敷跡も発見されています。
若林城跡はどこにあるの?
仙台駅から車で約10分、南東側へ約3kmほど行った仙台市若林区古城にあります。
若林城跡は「宮城刑務所」となっており、入城できません。
城跡の北側に「若林城跡」と刻まれた石注と、若林城の説明が記載されたパネルが設置されています。
また外側から土塁と堀がみえ、城跡の痕跡を確認できます。
伊達政宗以前の歴史
古代から仙台地方の中心地だった?
若林城のある若林区内には、4~5世紀に造られたとされる仙台市最大の※「遠見塚古墳(とおみづかこふん)」があります。
古墳はかつて、この地域を支配していた地方豪族のものと思われ、古代から人々が定住し集落を形成していたことがわかる遺跡です。
また奈良時代には、若林区に陸奥国分寺(聖武天皇の発願によって建立された※国分寺の1つ)や国分尼寺が造営されました。
これらのことを踏まえても、若林区一帯は古から仙台地方の中心地であったのではないかと考えられています。
国分氏の古城があった?
戦国時代には入ると、国分氏(こくぶんし)という武士の一族が台頭し、若林区一帯を治めます。
若林区には国分氏に関連する城館が複数あったとされており、史料にもその存在が記されていました。
たとえば延宝年間(1673~1681)の『仙台領古城書立之覚』には、付近に2つの古城があったと記されています。
また元禄・享保年間(1688~1736)の『東奥老士夜話(とうおうろうしやわ)』には、若林城は2つの古城のうちいずれかの場所に築かれた、とも記されています。
とはいえ史料が乏しく、国分氏に関連する古城の存在は明らかにされていません。
国分氏に関しては、こちらの記事をぜひご覧ください。
伊達政宗の若林城
やがて国分氏は伊達家の配下に入り、時代は後に”太平の世”と呼ばれる江戸時代へ。若林区は仙台藩の一部として、藩主・伊達家の統治下に置かれます。
伊達政宗の生前
仙台藩初代藩主・伊達政宗は、慶長5年(1601)に仙台城(青葉城)を築城し、城下町をつくりました。
そして時は流れ、仙台城築城から30年後。
藩政の執務はすでに息子の2代目・忠宗に引き継いでおり、仙台城へ赴く機会が減っていた政宗公は、平地への居館造営を計画します。
こうして寛永4年(1627)に若林城の築城が開始され、1628年(寛永5年)に完成。
さらに城の周辺には町奉行が置かれ、侍屋敷と町人が住む屋敷も配置します。
また家臣には、仙台城下と別に若林城下に屋敷を割り当てるなどし、政宗公は仙台城下とは異なる”第二の城”と城下町をつくり上げていったのです。
政宗公は若林城でおよそ8年の時を過ごし、寛永13年(1636)に江戸で亡くなります。
そして政宗公の死とともに、城内の建物は仙台城の二の丸に移築され、若林城は廃城。家臣も若林の屋敷を引き払い城下町も廃されました。
伊達政宗の遺言
政宗公は病をおして江戸に行く際、「館の西南に杉を植え、城の周りの堀一重を残してそのほかは田畑とせよ」と命じました。
政宗公が死を予期して発言した思われる言葉で、事実その言葉が遺言となります。
遺言に従い跡地となった若林城には、仙台藩の農園が設けられました。
伊達政宗死後の若林城
廃城後の若林城跡は、「若林古城」「小泉古城」「古城(ふるじろ)」とさまざまな呼ばれ方がありますが、その名称は現在も仙台市若林区内の住所地名に残っています。
ちなみに小泉は、松島の小泉と区別するために「南小泉」と名付けられました。
跡地となった若林城は、仙台藩の若林薬園として活用され、人参などの薬草が栽培されていたようです。
明治になると警視庁がこの地を買い上げ、宮城集治監を設置。宮城監獄を経て、大正11年(1922)に現在の宮城刑務所となりました。
若林城跡は今どうなってるの?
21世紀の現在は、「宮城刑務所」となっている若林城跡。土塁はそのままで、堀は一部が埋め立てられていますが大部分は残っています。
しかも驚くべきことに、18世紀末に記された仙台城下絵図に記された若林城跡と現在の写真とをみくらべると、形がほとんど同じ! およそ300年に渡りその姿が保たれているのがわかります。
宮城刑務所内にある朝鮮ウメ(臥龍梅)
若林城跡にあるこのウメは、伊達政宗が文禄元年(1592)の※文禄の役(ぶんろくのえき)で朝鮮出兵した際に、朝鮮半島から持ち帰ってきたものです。
朝鮮ウメをはじめ仙台城に植えられましたが、その後若林城内に植え替えられました。
樹齢は220年以上もしくは360年と推定されています。昭和17年(1942)に「朝鮮ウメ」という名称で、国の天然記念物に指定されました。
このウメは遅咲きで、香りが高く大きな果実を実らせるのが特徴。
地面を這うように伸びる枝や幹から、典型的なウメの一変種である「臥龍梅(がりゅうばい)」であることがわかっています。
朝鮮ウメは刑務所内にあり、最初のウメに接ぎ木したいわゆる2代目。
刑務所内に植えられているため一般には非公開ですが、実は年に一度だけ宮城刑務所で開催される「矯正展」の所内見学ツアーでみられるのです。
仙台城跡に行ったら若林城跡へ!
こうして表向きは「政宗公のご隠居所」として造営された若林城ですが、政宗公が生涯現役、隠居することはありませんでした。
政宗公が晩年を過ごし、死とともに姿を消した幻の城。あなたも若林城跡がある場所で、政宗公に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【若林城跡の基本情報】
所在地:
〒984-0825 仙台市若林区古城2丁目3
アクセス:
<バス>
仙台駅前から仙台市営バス「薬師堂行」に乗車約17分「南小泉四丁目東」バス停で下車し徒歩約5分
<車>
仙台駅から県道235号経由で約13分
駐車場:
なし
■旅の拠点は、やっぱり仙台!
仙台市内には、リーズナブルな価格で宿泊できるビジネスホテルやカプセルホテルが充実しており、旅の拠点にピッタリなエリアです。
また県境へ車を30分ほど走らせれば、秋保温泉や作並温泉もあります。ぜひチェックしてみてくださいね!
「楽天トラベル」で仙台市の宿・ホテルをさがす「Yahoo!トラベル」で仙台市の宿・ホテルをさがす「じゃらん」で仙台市の宿・ホテルをさがす