支配力のなかった大和政権
大和政権は現在の奈良県北部の占める、大和地方の豪族たちが成立させた連合政権のこと。
支配地域は九州から関東に至り、その頂点に立った人物は「大王」と呼ばれました。大君はのちに天皇と名称が変わります。
ただし律令体制が築かれる以前の大和政権は、全国を直接支配していたわけではありません。
地方統治は各地の豪族に任せており、政権の支配力はそれほど強くなかったと考えられています。
しかし8世紀に入ると、大和政権に大きな変化が訪れます。
そのキッカケの1つが、天智2年(663年)に朝鮮半島で起きた「白村江(はくそんこう)の戦い」です。
この戦いを機に、今までは豪族が自由に行っていた地方支配から、朝廷の監視が行き届く天皇中心の律令体制に向けて本格的に動き出すのです。
その延長線上に多賀城の創建や、蝦夷征討といった大和政権と古代東北の戦乱があります。
侵略される危機感から、律令体制へ
まずは契機の一つ、白村江の戦いについて紹介します。
当時の朝鮮半島は「高句麗(こうくり)」「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の三国が、覇権を巡り争っていました。
しかしそこへ第三の勢力、中国大陸を統一した大国・唐(とう)が参戦。しかも唐と新羅は連合を組み、大和政権と関係のあった百済を滅ぼします(660)。
当時の朝鮮半島は、最先端の技術や文化を取り入れる重要な取引先。失うわけにはいかず、百済の生存者からの救援要請を受け、大和政権は朝鮮半島へ3回にわたり軍を派遣します。
しかし大和政権は、唐・新羅連合軍に大敗(白村江の戦い)。百済復興への道は閉ざされ、朝鮮半島における日本の地位は失われました。
そして668年に唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一。しかし唐と新羅は支配権を巡って対立し、676年には新羅が唐の勢力を駆逐して、半島統一を成し遂げます。
新羅と対立関係にあった大和政権は、報復・侵略される危機感を覚え、「侵略されないためにも、唐のように皇帝を中心とする国家体制(律令国家)を築かなければならない」という意識が高まっていくのです。
律令国家の基礎となった政変「大化の改心」の中心人物、※中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、この白村江の戦いに参戦していました。
中大兄皇子が天智(てんじ)天皇として即位したのは、戦争から5年後のこと(673年)。2年後には人民把握のための戸籍制度をつくり、天皇の中集権化を進めていきます。
天智天皇の死後、皇位を巡る争いが起こったものの(壬申の乱)、673年に天智天皇の弟・天武天皇が即位。
兄の意思を継ぎ、唐のような律令国家を目指して、日本史上最初の体系的な律令法「飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)」を制定します。
これは701年に制定された本格的な律令「大宝律令(たいほうりつりょう)」の前身になったとされ、天皇を頂点とする律令国家体制が整います。
多賀城創建までの流れ
大宝律令の制定より、少し前に遡る7世紀。律令体制の成立に向けて着々と準備を進める大和政権ですが、白村江の戦いなどで外交も不安定でした。
そこで大和政権の力が及ばない、異邦の地も同然だった古代東北「蝦夷(えみし)」を支配下に置こうと、「※城柵(じょうさく)」の建設を着手。同時に柵戸(さくこ)と呼ばれる移民を移住させ、支配の拡充を図っていきます。
記録では大化3年(647)に現在の新潟県新潟市付近に設置された「渟足柵(ぬたりき)」がはじまりとされ、その翌年には同県の村上市付近に「磐舟柵(いわふねのき)」が造られました。
大和政権に従う者、従わない者
先住民の地へ勝手に踏み入り開拓を進める中央に、蝦夷の人々は当然憤ります。
両者の間にしばし衝突が起こりますが、蝦夷は部族社会のため、中央と微妙な均衡を保っていた部族もいたようです。
しかし養老4年(720)、陸奥国北辺で蝦夷による大規模な反乱が発生。朝廷に陸奥国の按察使(あぜち/地方政治を監督する官職)が殺害されたという報告が入ります。
朝廷は多治比県守(たじひあがたもり)を征夷大将軍に任命し、反乱は一年経たずに鎮圧されます。
それから4年後の神亀元年(724)、大野東人(おおのあずまひと)によって「多賀城」が創建されたのです。