目次
仙台城(青葉城)以外のお城をめぐる
仙台市と周辺のお城を紹介するこの企画。5回目となる今回は、仙台市太白区郡山にある「北目城跡(きためじょうあと)」を訪ねてみました。
慶長5年(1600年)徳川家康による会津征伐で、”北の関ヶ原”といわれる「慶長出羽合戦」や「白石城の戦い」が勃発。家康側に付いた伊達政宗は、上杉景勝軍を討ち滅ぼすべく「北目城」を拠点地とし出陣しました。
今回は北目城跡、そして政宗にまつわる伝説が残る毘沙門天堂を訪ねます。
1回~4回まではこちら
北目城とは?
「北目城(きためじょう)」があったのは、JR長町駅から南東約1.5km、広瀬川の南岸辺りです。
現在跡地とされる場所には住宅や商業施設が立ち並んでおり、土塁の一部が残る程度で城郭の面影はありません。目印として、標識と説明案内板が設置されています。
北目城は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いから仙台城に移るまで、伊達政宗が居城・軍事拠点として利用していた城ですが、政宗以前は一体どうなっていたのでしょうか?
北目城の歴史(政宗以前)
北目城の城主、粟野氏って?
戦国時代の「北目城」は、仙台市南部(北目領)を支配していた粟野氏(あわのし)の居城でした。
粟野氏は越中(現在の富山県)にルーツをもつ一族ですが、南北朝時代にあたる康永2年(1343)頃に名取郡に所領を得て移住してきたようです。
しかし粟野国定が当主のとき、名取郡南部に勢力を伸ばしていた伊達氏と衝突。伊達氏12代当主・伊達成宗(だて しげむね/なりむね)との戦に敗れ、伊達氏の支配下に入ったとされています。
■天文の乱では、伊達晴宗と対立!
粟野氏は伊達氏に服属しましたが、同じ仙台平野で勢力を張っていた国分氏(こくぶんし)や留守氏(るすし)と同様、領主としての支配権は保持したままでした。
つまり北目城をはじめ保有している土地や人民は、伊達氏ではなく変わらず粟野氏が支配していた、ということです。
そのため伊達氏の内乱、天文11~17年(1542~1548)の”天文の乱(てんぶんのらん)”では、粟野氏は秋保氏らとともに稙宗派(相馬氏寄り)につき、晴宗や留守氏と対立しています。
※天文の乱(てんぶんのらん)…伊達稙宗(だて たねむね)と晴宗(はるむね)親子が起こした内紛。仙台地域に勢力を張る領主らも二手に分かれ、国を巻き込んで争った争いに発展。結果晴宗が勝利し、稙宗は家督を譲り隠居した(現在の丸森町)。
■伊達氏、粟野氏への支配権を強める
しかし幼い宗国(むねくに/重国)が家督を継ぐと、その機を逃すまいと伊達氏は粟野氏の管理を強化(永禄年間1558~70年)。
また北目城は、北方の大崎氏に備える要衝でもあるため、伊達氏は北目給衆と呼ばれる※与力衆を派遣し、監視の目を強めていったとされます。
※与力(よりき)…大名または有力武将に従う下級武士のこと。馬に乗ることも許されていたので呼称単位は「騎」である。
粟野宗国、相馬攻めに参戦
粟野宗国の存在が表に出てきたのは、天正4年(1576)に起きた16代当主・伊達輝宗(だて てるむね)による※相馬攻めです。
伊達氏が相馬氏にとられた旧領地、小斎・金山・丸森を奪還する戦で、家臣たちがほぼ総動員されました。
宗国は単独で、6番”備”(そなえ/独立した作戦行動をとれる部隊)を任されます。
このことから、当時の粟野氏は独自の家臣団・軍事力を所有していたと考えられ、伊達氏傘下に組み込まれたといっても高い地位を築いていたようです。
※相馬攻め…天文の乱で隠居した15代当主・稙宗の領地(小斎・金山・丸森)を、相馬氏(現在の福島県東部を支配していた領主)が侵略。天正4年伊達輝宗が領地奪還のため出陣した。1579年に両者で一時的な和解が成立する。
葛西・大崎一揆と、領地の移動
天正12年(1584)輝宗が隠居し、政宗が伊達氏17代当主となります。南奥州を制覇しその名を轟かせますが、小田原合戦を機に豊臣秀吉に服属。
そして天正18年(1590)に小田原が落城、北条氏が降伏したことで豊臣秀吉が天下統一を成し遂げました。
秀吉は小田原合戦の呼びかけに応じなかった奥州の戦国大名に対し、領地を没収するなどの”奥州仕置(おうしゅうしおき)”を実施します。
宮城県北部に勢力を張っていた葛西氏(かさいし)と大崎氏(おおさきし)は領地を没収され、滅亡。
両者が治めていた領地は、秀吉の家臣・木村親子の手にゆだねられます。
しかし木村親子の統治方法に、旧葛西氏・大崎氏の家臣らは猛反発! こうし天正18年(1590)に葛西・大崎一揆が起こります。
政宗は秀吉からこの一揆の鎮圧を命せられ、家臣団を動員。その中には宗国の名前もあります。
乱の鎮圧後、秀吉から旧葛西氏・大崎氏の領地を与えられた政宗は、宗国に北目領から東山大原(現在の岩手県一関市大東町)へ移封(いほう/所領の移動)を命じました。
■秀吉から仕置を食らい、政宗も岩出山城へ移封
またこの時、小田原合戦に遅参したり、惣無事令(大名同士の私闘を禁止する法令)に違反した政宗は、天正19年(1591)秀吉方仕置きを食らい、現在の大崎市にある「岩出山城(いわでやまじょう)」へ移封となります。
そのため伊達氏の家臣団も、支配地域の変更や給料の削減などが発生。粟野氏の移封も、その一環だとされています。
北目城の歴史(政宗以降)
長々と書いてきましたが、戦国時代の末期まで粟野氏が城主を務めていた北目城。粟野氏が去り、代わりに城主となったのは政宗の側近・屋代景頼(やしろ かげより)でした。
北目城を本拠地とする計画があった?
戦国時代末期の慶長5年(1600)。関ヶ原の合戦が迫る緊迫した状況下で、仙台城の築城計画が進められていました。
そんな中、仙台城ではなく北目城を改築して本拠地としたらどうか? という案が浮上。しかし北目城を本拠地として改築するには時間がかかると、この案は却下されたようです。
上杉軍と戦う拠点として利用された
慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が始まると、政宗は岩出山城へは戻らず北目城に入ります。ここを拠点とし「白石城(しろいしじょう)」を攻略すべく、政宗は会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)軍と対峙。
屋代氏も参戦し、政宗はかつての所領である白石城の奪還に成功します。
仙台城の完成と北目城の廃城
慶長8年(1603)政宗が仙台城に移ると、北目城に関わる家臣たちも仙台城下に移動になります。役目を終えた北目城は廃城へ。
仙台城下には「北目町」という地名が今も残っており、これは北目城の家臣たちが移り住んだ地を町名としたようです。
北目城の跡地には、「館ノ内」「出丸」「矢口田」「矢来前」「北目宅地」「北目前」といった城館に関わる地名が残されています。
北目城は毘沙門天に守られていた?
粟野氏と伊達氏にまつまる、毘沙門天の逸話があります。詳しくは以下の記事をご覧ください!
北目城の規模は?
北目城の総面積は約128,000平方メートルで、東京ドームに換算すると約2.7個分に相当します。
城の規模は東西約370mで南北約280m。敷地は東西約500mで南北も約500mです。
北目城の中心地点は、現在「ホテルルートイン」がある場所。平成19年(2007)の発掘調査では、ここが北目城の中心部と想定されています。
北目城跡はどこにあるの?
北目城跡の標識と説明案内板があるのは、仙台市太白区郡山4丁目。北目城があったとされる敷地は太白区東郡山2丁目まで及んでいます。
北目城へのアクセス
<バス>
仙台駅前から市営バス「東高校入口行」に乗車(約13分)「若林小学校前」で下車、徒歩約15分
<車>
仙台南部道路 長町I.Cから約4分
駐車場:
なし
ついでに寄りたい!郡山遺跡
郡山遺跡は北目城跡から徒歩で約9分のところにあります。遺跡面積は約627,900平方メートル。
昭和54年(1979)から発掘調査が行われており、多賀城創建以前の※官衙(かんが)・寺院跡であることが明らかになりました。平成18年(2006)国の史跡に指定されています。
※官衙(かんが)とは…役所、官庁のこと
【郡山遺跡の基本情報】
所在地:
仙台市太白区郡山2~6丁目
アクセス:
北目城跡から徒歩で約9分
駐車場:
なし
伊達氏以前の仙台市を知る粟野氏
地元でもあまり話題に上がらない、中世の豪族・粟野氏が領主を務めた「北目城」。伊達氏より前にこの地に土着し、戦国の世で自身の領地を支配し守り抜いてきた一族です。
伊達家以外多くは、自家に関する伝記などの史料が伝わっていません。粟野氏と同様、伊達氏の支配下に入った家が多く、伊達氏以前の歴史は謎に包まれています。
ついつい強者びいきになってしまいますが、伊達家以外のゆかりの地も足を運んでみたいものです。